はやすぎず、そして充分歌うが如く







不足など無い筈なのに、

何も期待してはならない筈なのに、

君に望むことが尽きない、求めるものが尽きない。

僕は愚かなのだろうか。






10.




「お前ら、何があってん?」

「…は?」

アキラは社の言葉の意味を 計りかね、怪訝そうに彼の顔を見た。

「…いや、正確には”お前ら”やなくて塔矢、お前個人やな。お前、何があってん?」

「…言ってる意味が良く分からないんだけれど」

眉根を 寄せるアキラ。二人で挟んでいた碁盤から少し離れ、社は後ろに畳んで置いてある布団 に寄りかかって足を崩した。

「意味はそのまんまや。お前、今日の朝から何かおかしいやん。ピリピリピリピリしよって。 そりゃ、
仕事中はいつもの通り、営業用の顔やったけど、何やねん、あのギャップ は。気色悪ィわ。お前知らへんやろうけど、棋院の職員サンたちもビクついてたんやで?」

そんなに露骨に言動に出ていたのだろうか、とアキラは思った。
実のところ、思い当たるふしは有り過ぎるほど有るので、返す言葉が見付からない。

「…そんでもって進藤にだけはやたら優しいしな」

それを聞いて、アキラの 心臓が飛び跳ねた。

「進藤の方はケロッとしたもんやさかい、例えば進藤と喧嘩してお前が一生懸命機嫌 取ってる、とかいう風には見えへんかったし」

「………」

「ほんま、どないしたん?」

苦笑しながらそう聞く社に、アキラは言葉を 返せなかった

遅ればせながら、此処は塔矢邸である。

無事に囲碁ゼミナールでの仕事を終えた彼らは、話し合いの通り、また対局三昧合宿 と題して、塔矢邸に泊り込むことになったのである。とはいっても1泊だけだが。

今、時間は夜10時をまわったところである。
ヒカルは此処にはいない。風呂の順番決めじゃんけんでめでたく一番になったので、 現在入浴中だ。

そんな、二人しかいない和室に、アキラの困惑を表すような沈黙が数秒流れた。 そして、

「別に、僕は何も…」

と、歯切れの悪い返事が返された。 社はあぐらをかいた格好のまま天井を仰ぐと、傍らにある碁笥の中に手を突っ込み、 碁石を弄びだした。

「まあ、言いたくないんなら無理に言わんでもええけど。………なあ、塔矢」

社は手に取っていた碁石を碁笥に戻すと、片膝を抱え、アキラの方は見ずに独り言の ように言った。

「的外れなこと言うてたら、堪忍な。………お前さ、もしかして…」

そこまで言いかけた時、廊下からぱたぱたと足音が聞こえた。それに続いて 襖がガラッと開く。

「ふー、さっぱりしたあ。悪ィな塔矢、家主より先に入っちまって」

タオルで濡れた頭をぐしゃぐしゃと拭きながら、ヒカルがにこやかに部屋に入ってきた。
アキラの隣にどっかと座ってあぐらをかくと、またタオルで頭をぐしゃぐしゃと やった。

「次、塔矢だろ?お湯冷めないうちに入ってこいよ」

「あ、ああ…うん」

ヒカルの様子にぼんやりと見入っていたアキラは、そう 言われて我に返った。

「じゃあ社、お先に」

アキラはそう言いながらのろのろ立ち上がると、 部屋から出て行った。アキラの足音が遠のいてすぐ、
社はぽつりと呟いた。

「…的外れやないかもな」

「へ?」

ヒカルがきょとんと社の顔を見上げる。

「いや、何でもない」

社は かぶりを振った。

「それより打とか、一局」






社は気付いているのだろうか。アキラは湯船に身を沈めながら考えた。

別に、気付かれたから物凄く困るというわけではないが、自分の心の中を読まれた ようで、少し怖い。
いや、自分が、読まれるような分かり易い態度を取ってしまって いたというだけの話か。

だとしたら、自分の身から出たことだ。誰が悪いというわけでもない。悪いの は自分だ。

僕は何をやっているのだろうか。

顎まで湯に漬かりながらアキラは眉間に皺を寄せ、目を瞑った。

いつなんどきも自分の中にあった、進藤ヒカルの打つ碁に対する執着。
それがいつの 間にか、進藤ヒカルという存在自体に対しての執着に姿を変えていた。

もし仮に、彼が碁を打たなくなり、自分のライバルでもなくなる日がきたとしても、彼を 自分の中から追い出せるとは到底思えない。囲碁ゼミナールでの一件から、アキラはそう 認めざるを得なくなっていた。

自分でも持て余しつつあるこの感情の正体は、おおよそ見当がついている。しかし、 だから何だというのだろう。自分に何が出来るというのだろう。

この思いを、露骨にヒカルに向けることなど、出来るはずもない。言うまでもない ことだが、自分とヒカルは同性であり、そんな思いをぶつけてみたところで、 ヒカルを困惑させるだけ、それどころが、気持ち悪いと拒絶されるかもしれない、とい うくらい、アキラにも容易に想像出来た。

「…馬鹿だ」

濡れた両手で顔を覆う。

「馬鹿だ、僕は」

誰に言うでもなく、自分を諌めるでもなく、アキラは顔を 覆ったまま吐き出すように呟いた。

こんな思いがどうにかなるわけが無いのに。何らかの形で報われるなんて、あるはずが ないのに。











さて、波乱の囲碁ゼミナールから10日ほど経過したある日。

「あれ、ヒカル、エレベーターはこっちですよ?」

「だって3階だろ?駄目駄目、これくらい階段であがらねーと!」

そう言うと、ヒカルはさっさとコンクリートの階段を目指す。

「あぁヒカル、待って下さいよう」

佐為が慌ててヒカルのあとをついてゆく。

「棋院の階段で鍛えた、秘儀2段抜かしぃー」

とか言いながら階段を駆け上がっていくヒカルと、同じペースで一気に3階まで来ると、 もう佐為は息があがってしまっていた。

「だっらしねえなあ。駄目だぞ、運動は身近なところから習慣づけないと!」

息一つ乱さずそう言うヒカルに、佐為は吹き出しそうになってしまった。
よく歩き、 よく動くヒカルの後ろにいつでもついてまわり、何処でも一緒だった頃のことを 一瞬回想したのである。

あの頃は、どんなに動き回っても疲労など感じなかった。残留思念の塊で実体が無かっ たのだから、
まあ当然の事だが、それを思うと、身体のある今の自分がいかに幸せか、 とも思う。

「そうですね、私も少し身体を動かさなくては」

そう言いながら佐為は、こっちですよ、とヒカルを手招く。そして305と書いてある 扉の前で止まると、ポケットから鍵を出して扉を開けた。

「さ、どうぞ」

ヒカルは興味深げに室内をちらと覗き込んでから、

「お邪魔しまーす」

と、佐為に続いて中に滑り込んだ。

此処は、いま佐為が住んでいるというマンションである。

あの囲碁ゼミナールでの突然の再会から、既に10日近く経過していたが、その間、 殆どメールや電話などで毎日連絡は取り合っていたものの、直接会う機会は一度も無かった。

何だかんだ言っても、ヒカルも決して暇で暇で仕方が無いというわけではない し、佐為は佐為で平日殆ど勤め先に縛られている。互いのスケジュールが一致する日が なかなか見つけられなかったのだ。

それがようやく今日、10日ぶりに会うことが叶った、というわけである。

ヒカルの希望もあって、今日は佐為の自宅につれて来て貰った。ヒカルのマンションに 一部屋付け加えたような感じの1DKの部屋である。

佐為の後ろについて部屋の中へ歩みを進めてゆく。ヒカルはきょろきょろと室内を見渡した。

「綺麗にしてるなあ。俺も今の部屋、そこそこ小奇麗に住んでるつもりだけど、 その比じゃねえや」

佐為はそれを聞いてくすっと笑った。

「ヒカルが今日来るから、昨日のうちに片付けたんですよ。いつもはここまできちんと してません」

そう言って、ヒカルにソファを勧めると、佐為は台所に入った。

「なあんだ、そうなの?何か、彼女を始めて部屋に呼ぶ彼氏みてーなノリ だな」

罪のない笑顔でそう言い、うはは、と笑うヒカル。佐為がそれを聞いて 、一瞬複雑そうな顔になったことに、ヒカルは気付いていない。

「お、あのPCでネット碁してたのか」

そう言うとヒカルは、ソファから立ち上がって、 机の上のデスクトップPCを覗き込んだ。
ふと、思い当たる事があって、ヒカルは机の前に立ったまま、またきょろきょろと室内を見回した。

そうするうちに、佐為がカップを二つ持って台所から出てきた。

「どうぞ」

コーヒーの入ったカップを二つともテーブルの上に置き、砂糖壷を 取りにまた台所へ引き返す佐為。

「ああ、有難う」

ヒカルもきょろきょろをやめて、またソファに腰掛けた。

スプーン3杯程の砂糖を流し込んだコーヒーを啜りながら、ヒカルは佐為に 尋ねた。

「なあ、佐為」

「はい?」

「お前、碁盤持ってねェの?」

「持ってますよ」

カップを置いて佐為は立ち上がった。そして、もう一つの部屋に通じる引き戸を 開けた。

その部屋は寝室らしく、シングルベッドとサイドテーブルが薄暗い中にちらっと見えた。
佐為はその部屋の隅の方から、碁笥を二つ載せた足つきの碁盤を抱えて 戻ってきた。

「それ、本カヤ?」

「はい」

佐為は嬉しそうに頷き、その碁盤を テーブルの横に置く。

「すげーな。俺だってまだじいちゃんに買って貰ったカツラのやつ、大事に使ってん だぜ?」

いつかはそういうのも欲しいけど、と言いながら、ヒカルは佐為の 碁盤に歩み寄った。

「退院した後、すぐに買ったんです。誰と打てる予定もありませんでしたけれど、 どうしても手元に置いておきたかったんですよ、これ」

「じゃあ、こんないい碁盤持ってるのに、これで対局は一度もしてないんだ?」

「ええ。記譜並べに使うばっかりでね。対局は主にあっちで」

そう言って、佐為はPCを指差した。

「…そう言えばさ、佐為」

「はい?」

「お前さ、ネット碁で、shuって 名前で俺と始めて対局した時、なんで俺が本因坊リーグ入りしたこと、知ってたの?」

確かあのネット対局は、リーグ入りを決めて数時間後にあったことだ。

「ああ、あれですか。聞いたんですよ。棋院の知り合いに」

「棋院の知り合い?」

聞き返すヒカルに佐為は困ったような笑みを浮かべながら、はい、と言った。

「出版部の人なんですけれど、退院して半年程経ってからでしたか、出版部に 知り合い作ったんです」

「…知り合い作ったんです、って、どうやって?」

「まあ、色々と」

そう言ってまた困ったように笑う佐為。

ヒカルの棋譜や仕事の情報が欲しいがために、それを逐一教えて貰えるような人 と友達になれるような、妙なはかりごとでも仕組んだのかもしれない。これと思った ら猪突猛進するのが佐為の性格だ。
何をやったのかについては、ヒカルは深く 考えないことにし、話題を転じた。

「佐為」

「何ですか?」

「お願いがあるんだけど」

碁盤を撫でながら、ヒカルは少し俯き加減に 切り出した。

「…今から俺と一局、本気で打ってくれ」

そう言って、ヒカルは佐為の顔を見上げた。急に目付きが真剣になっている。

「ヒカル、本気で打ってくれっていうのはどういう…」

「真剣に相手する、って程度じゃ駄目なんだ。お前の持ってる力全部で、俺を潰しに かかってくれ。
それくらいの気迫で戦って欲しい」

ヒカルは盤上の十九路を見詰めながら続けた。

「俺とお前ってさ、こうやって盤を挟んで向かい合って、真剣勝負した事は一度もない んだよな。
まだお前が俺にとり憑いてた頃は、俺の力量が全然足りなかったし、 最近になって、ネット碁で知らないうちにお前と何度も対局してたけど、 俺の方は、相手がお前だと知らずに打ってたわけだし」

佐為は黙って聞いていた。

「だからこれから、対戦相手がお前だって、 本因坊秀策だって分かってる上で、本気の殺し合いをしてみたいんだ。 もうすぐ本因坊リーグも始まる。俺の力で、何処まで行けるかは分からないけど、 生半可な気持ちで挑むつもりは更々無い。だから…」

ヒカルが顔をあげた。そして佐為の顔を正面から見据える。

「俺に発破かける意味も込めて、本気で一局、打ってくれ。頼む」

「分かりました」

佐為は穏やかな顔のまま頷いた。

この子が自分に向かって、こんなことを言うようにまでなるとは、と佐為は感慨深い 思いで、ヒカルと向き合って座り、石を握った。

「俺が先番な」

「はい」

一瞬、ヒヤリとするような沈黙が流れた後、 ヒカルの方から声をあげた。

「お願いします」

「お願いします」





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