はやすぎず、そして充分歌うが如く







11.




険しい表情で、かなり長時間考え込んだ末、ヒカルは声にならない呻きのようなものを 漏らした。
そして、自分のアゲハマを盤上に撒く。

「…ありません」

ヒカルがそう言って頭を下げた。向かいの佐為もワンテンポ 遅れて頭を下げる。

「有難う御座いました。………さて、どうです?感想は」

佐為が目にかかった前髪を手で払いながら笑った。白い顔に若干疲れが見える。

「………怖かった」

ヒカルは長い溜息を吐いた後にそう言った。

「ああいや別にね、自分が負けるかもしれないってことが怖かったわけじゃ ないんだ。気後れしていた
つもりは全然ないし、はじめっから最後まで、勇猛果敢に 立ち向かってやろうって気満々だったからね。
……何ていうかその」

ヒカルは、うー、と唸ってからおずおずと口にした。

「お前の力が底無しに思えて怖かったんだよ」

それを聞いて、佐為は噴出した。ヒカルは更に続ける。

「それで何かさ、俺こんなんじゃ全然駄目じゃん、もっともっと強くならなきゃ駄目 じゃん、俺の行く末も先が全然見えないじゃん、って。それが……怖く思えた」

「そうですか」

佐為は笑い顔を崩さぬまま2,3度頷いた。

「怖く、ねえ……」

そして、『実は』と前置きしてから、

「私もそう思ってました」

と白状した。意外そうな顔を見せるヒカ ルに、また柔らかく笑ってから、佐為はいったん座り直した。

「凄く焦ってたんですよ?まさか此処まで食いついてこられるとはね。特に 此処…」

盤上の石を指す佐為。ヒカルは何度か目を瞬いた後に、また盤上に 向かって屈み込むような姿勢を取る。

「これで上辺は完全に死んでしまった。ヒカルのヨミの 勝ちですね。もっとも、その後私もこちらで…」

ぱち、ぱちと音が鳴る。

「そこは痛かったな。やっぱりそう打つんじゃなくて…」

ヒカルも手を出し口を出し、熱心に考えにふける。

「左上の攻防を狙うという意味ではその手は有効ですが、私がこう出たら後はどうなり ます?」

それにまた佐為が意見し、二人して ああでもないこうでもないと、時間を忘れて検討に没頭する。

数年前まではこういう毎日が当たり前で、そのような日々に特別な感慨を覚えた事は、 そう無かった。
しかし、二人とも一度それを亡くしたのだ。唐突に。

二人とも口には出さなかったが、今その有り難味を嫌というほど実感していた。 同時に幸せだ、とも。

「んあー、でもまだお前には勝てないかぁ俺…成長はしてるはずなんだけどなあ」

「確かにヒカルは成長していますよ。私が付きっ切りで教えていた時とは 比べものにならないくらいにね。でもそう簡単に私に勝たれちゃ困ります。師匠とし ての立場、なくなりますもん」

二人の間に笑いが起きた。

「それに、ヒカルにはもっともっと強くなって貰わなくてはね。勿論、私も追い越さ れないように、これからも精進し続けますけど。でもいつか、それこそヒカルが私を 凌ぐくらいの力をつけるような日が来たら…」

顔を見上げるヒカルに、佐為はにっこり微笑みかけた。

「また此処で、本気の勝負といきましょう」







やがて、季節は10月に入った。本因坊リーグ戦も既に始ま っている季節だ。

19歳になったヒカルは、芹澤九段を4目半差で、畑中九段を2目半差で下し、すこぶる 快調な滑り出しを切っていた。一方アキラも、座間王座と乃木天元を下し、また碁界 に波を立てていた。

今回の本因坊リーグは10代の棋士が二人も入っているということで随分と話題 を呼んでいる。
もし、ヒカルとアキラのどちらかが本因坊戦挑戦者となって も、またタイトル奪取ということになっても、史上最年少の快挙である。碁界に 大波が来る、と言い散らす気の早い輩も多い。

しかし棋院関係者の間では、誰が最有力候補、などというはっきりした説は上げられて いないという。
十段、碁聖、名人の3冠を持っている緒方もいるし、倉田も本因坊位に虎視眈々だ。 何処から見ても先が分からぬリーグ戦とすら言われている。

文字通りの激戦が繰り広げられつつあるようだ。

そのような日々の中において、渦中の人であるヒカルは、佐為との一戦の影響も あってか、勝ちを増やすというよりも、自分の力をひたすら高めることに焦点を絞って、 日々邁進していた。
手合いも多いし、研究会にもいくつも参加しているし、 アキラと会って打つこともしょっちゅうだ。自分の部屋に戻ればそこでまた棋譜研究。

毎日が碁漬けの日々だが、ヒカルは疲れる様子も見せず、生き生きと過 ごしていた。スケジュールの合間を縫っては、佐為と会って対局したり、一緒に食事 をしたりもする。

毎日はそんな感じで充実していた。





その日、大手合いと森下門下の研究会を済ませたヒカルは、その足で佐為 の部屋に向かった。

特に約束はしていなかったが、今日の自分の一局を並べて 見せ、意見を仰ぎたいと思ったのだ。まあ単に会いたいから、というものあるし、 あわよくば夕飯を食べさせて貰おうという腹もあるのだが。

時間はまだ5時をまわったところだ。この時間に佐為が帰っている事はまずない。 たいがい彼の帰宅は7時近いのが普通だ。だったらそれまで、彼の部屋で待たせて 貰えばいいとヒカルは思った。

実は、佐為に合鍵を持たされているのだ。いない間 に勝手に上がり込んでも良い、というお許しも得ている。

佐為の部屋に着く。念の為呼び鈴を鳴らすも、応答は無かった。やはりまだ帰ってき ていないのだ。
ヒカルは躊躇うことなく、合鍵を使って扉を開けた。

室内は薄暗かった。既に夕刻なのだから、まあ当然だが。ヒカルは内側から扉の鍵を かけ、上がり込むとすぐに居間の灯りをつける。

さて、あいつが帰ってくる まで何をして待っていようかな、と考えを巡らせる。
家主がいないのに勝手に テレビをつけたり、お茶を入れたりするのは何となく気が引ける。生憎今日は詰め碁の 本もコミック誌も持ち合わせていない。テーブルの上に積まれている文芸誌は多分 佐為の趣味か仕事の関係上のものなのだろうが、ヒカルが興味を示すジャンルでは なかった。

今日の一局を並べておくか、と思い、ヒカルは隣の寝室に繋がる 引き戸を開けた。
この部屋に碁盤が置いてあるのは百も承知だ。居間の灯りを消し てから寝室に滑り込む。一人暮らしを始めてから、省エネ精神が身に付いてきている ようだ。

西側にあるためか、寝室の方が居間よりは明るかった。ヒカルはベッドの脇に上着と バッグを無造作に放った。室内灯はつけず、ベッドサイドにあるランプだけをつけ、 その灯りの下に碁盤を引っ張ってくる。

「さて、と」

碁盤の前であぐらをかくと、ヒカルは黙々と今日の一局を並べ始めた。

いったん盤に向かってしまうと、ちょっとやそっとではヒカルの集中力は切れない。
此処が自分の部屋でない事も忘れ、ひたすら盤面に熱中した。こういう時のヒカル は、時間の感覚などあっという間に忘れてしまう。

ぱち、ぱちという石の音と、そこに時折ヒカルの独り言が混じる、という時間が そのまま流れていった。

ハタと気が付いて自分の手元の腕時計を見ると、6時を過ぎていた。小一時間 程が飛ぶように過ぎてしまったようだ。佐為はまだ帰ってこない。

そこへきてヒカルは、急に疲労と眠気を感じ出した。
この部屋の薄暗さのせいかもしれない。 そういえば、昨日も結構遅くまで起きて棋譜研究していたのだった。それに、今日の大手合いと 研究会でも、一定のテンションを保とうと気を張っていた部分もあったのだろう。 あまり意識はしていなかったけれど。

人のだからと一瞬躊躇したものの、でも少しだけと思い直して、ヒカルは佐為 のベッドにごろんと寝転がった。そのまま、うーん、と声を上げながら四肢を伸ばし、 軽く溜息をついて目を瞑る。

そこから眠りに入ってしまうのはあっという間だった。







「……やべ、ほんとに寝ちゃった…」

目が覚めたとき、既に室内は真っ暗になっていた。さっきつけたランプの下だけが 明るい。
慌ててその下に自分の腕時計を持ってきて時間を見る。7時を過ぎていた。 1時間ほど眠り込んでしまったらしい。

佐為はまだ帰ってきていないのだろうか。目を擦りながらヒカルがそう思った時、 玄関口のほうから
がちゃ、と鍵の開く音がした。

ぱっと眠気が醒める。ヒカルはいそいそとベッドから降りながらランプの灯りを 消し、引き戸に手をかけ、帰ってきた家主の名を呼ぼうと口を開けかけた。 その時。

「お邪魔しまぁす」

女の声が聞こえた。

「どうぞ、あんまりお構いできないと思いますけど」

今度は佐為の声。

・・・・え?

ヒカルは引き戸の前で立ちすくんだ。

二人分の足音が、ぱたぱたと居間に向かってくるのが聞こえる。室内灯がぱっと つけられた。引き戸の隙間からこっちにも灯りが射してくる。

声はなおも聞こえて来る。

「へえ〜几帳面なんだね、青木君。凄くきちんと してるじゃん。性格出てるってゆーか」

甘ったるい女の声に佐為の声が 答える。

「そうですか?単にモノが少ないだけですよ。あ、何飲みます?」

「んー、何でもいいよ。任せる」

「何でもいいって言われるのが一番困るんですけどねえ」

そう言う佐為の声 に、うふふ、という女の笑いが重なった。

暗い寝室の中で、ヒカルは音もたてず、声も上げず、ただ呆然と立っていた。
しかしやがて、冷静さが戻ってくると、そっと引き戸の隙間に顔を近づける。その隙間 を更に、音もたてずに少しだけ広げ、隣の居間を覗き見た。

ソファに若い女がひとり、ふわっと腰掛けるところだった。茶色い髪を片手でいじりながら、 台所にいる佐為にしきりに話しかけている。それに佐為もにこやかに答えているようだ。 しかし内容はヒカルの耳には全く入ってこない。

ヒカルは気付かぬうちに、ただでさえ大きな目を更に大きく見開いていた。



誰だ?あれは。





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