はやすぎず、そして充分歌うが如く







12.




「あ、ねえねえ、こっちの部屋は?」

女が立ち上がって、自分が篭っている寝室を指差しているのが見えた。ヒカルは 反射的に引き戸から
身体を離す。

「そこは寝室です。あ、見ないで下さいよ?」

佐為がそう答えたのへ、 女は、うふふふっと可愛らしい笑い声で応じ、

「えー、別にいーじゃーん」

と言いながら引き戸に向かって歩いてきた。

まずい、と思ったのと同時にヒカルの体が動いた。
衣擦れの音が最小限で 済むようにと何処か冷静に考えながら、ヒカルは急いでベッドの向こう側にまわる。 そしてそこに身を突っ伏して隠れたのとほぼ同時に、寝室の引き戸がガラッと 開けられた。

「へえー、此処で寝てるんだぁ」

「あぁもう、見ないでっていったのにー」

佐為の困ったような声。 女の甘い笑い声。そして幸いにもすぐに引き戸は閉められた。
ヒカルは見付かることなく、ベッドの向こう側に突っ伏したまま、暗闇の中に 残された。

そしてその姿勢のまま、動けずにいた

佐為と女の話し声は引っ切り無しに聞こえてくる。しかし内容は、ヒカルの頭の中に まるで入ってこない。脳が理解する事を拒否してしまったようだ。しかし、そうやって 麻痺したかのように思える脳味噌の隅の方で、様々な思考が高速回転していた。

あの女は誰だ。佐為の何なんだ。
恋人なんだろうか。いや、それだったら名字で 呼んでるのはおかしくないか。もしかしたら、恋人候補みたいな女友達なのかもしれ ない。しかし、それでも部屋に連れてきてしまったりするものなのだろうか。あの 女は佐為の部屋に何をしにきたのだろうか。話をしてお茶飲んで、それで終わり なんだろうか。まさかこれから、こっちの寝室に二人して入ってくるなんて ことは・・・。

そこまで考えて、ヒカルはようやく、今自分の置かれている立場に愕然とした。

そうだ。俺、ここにいるのはかなりやばいんじゃないのか?

幸い、まだ見付かってはいない。あの女にも、佐為にも。 けれど、これからどうすればいいのだ?
ずっと此処に隠れているべきなのだろうか。 息を潜め、物音を立てず、ずっとこの暗闇の中に突っ伏していればいいのだろうか。

いや、でももし、二人がこの部屋に入ってきてしまったらどうしよう。
俺はあっさり見付かるだろうし、見付かってしまったら、佐為は俺のことを あの女になんて説明するんだろう。俺はどんな顔して、あの二人の前に出ればいいん だろう。いやそれ以前に、問答無用で追い出されないとも限らない。

……どうしよう。どうしよう。

そう考えると、もう見付かるのは時間の問題のような気がしてきた。
心臓がばくばくと音をたて始めている。その音すら居間の二人に聞こえるんじゃないかと 心配になってきてしまう。ヒカルは、暗闇の中で相変わらず突っ伏した姿勢のまま 、冷や汗をかきつつ、じっと居間の様子を伺っていた。

何故自分はこんなに緊張しているのか、見付かる事を恐れているのか、ヒカル には分からなかった。

その時、

「あー、青木君、悪いけどトイレ貸してくれる?」

「ええ、いいですよ。そっちです、玄関に向かって右の…」

こんな会話が耳に入ってきた。

ヒカルはハタと閃くものがあって、むくっと身を起こす。そして、つま先歩きで 暗闇の中を移動し、引き戸のところまで来ると、また隙間からそっと居間を覗き見た。

ばたん、とドアを閉める音が聞こえた。そして居間には佐為しかいない。
そのままじっと彼の様子を見ていると、佐為はつと立ち上がり、そのまま台所へ 入った。そしてヒカルの側に背を向ける形でしゃがみ込み、備え付けの戸棚を開けて 中をかき回している。お茶菓子の追加でも探しているのだろうか。

これを見た瞬間、ヒカルの体は勝手に動き始めた。

音が立たないように細心の注意を払いつつ、バッグと上着を引っ掴む。
そして、 また引き戸の隙間から覗き見、佐為がまだこちらに背を向けているのを確認すると、 これまた音が出ないよう、注意深く引き戸を開け、自分ひとりが通れるくらいの隙間 を作った。そこからするりと身を滑らせ、ヒカルは寝室から出た。

そして片手で、そーっと引き戸を閉めると、つま先歩きで素早く玄関を目指す。

寝ているライオンの側をこっそり通り過ぎる草食動物宜しく、佐為の背後を 通り過ぎる形になったわけである。女の方はまだトイレに篭っている。

玄関に辿り着くと、ヒカルは急いで、バッグと上着を持っていない方の手で 自分のスニーカーを掴んだ。女のものと思しきロングブーツの筒部分が折れ、それが ヒカルのスニーカーに被さるような形になっていた。ヒカルの靴があることに佐為が気 付かなかったのは、このせいかもしれない。

その場で履く事はせず、すぐにヒカルはドアを開けた。そして靴下のまま外へ出ると、 またも細心の注意の下に、静かにドアを閉めた。そしてその直後、ザーッという水音と、 がちゃっとトイレのドアが開く音が聞こえた。

僅か20秒足らずの脱出劇であった。

ヒカルは、佐為にもあの女にも気付かれることなく 、この部屋から出ることに成功したのである。奇跡みたいな出来事だったようにも 思えるが。

冷たい外気がヒカルの頬を指す。詰めていた息をはーっと吐くと、ヒカルはすぐに 靴を履き、上着を着、
バッグを肩にかけた。

そして最後に、複雑な表情でちらっとドアを見やってから、小走りに階段を目指した。










客が帰ったのは、9時に近づこうとしている時間だった。

夜なので、礼儀に乗っ取るという意味で最寄りのバス停まで相手を送ってやった後、 階段よりも迷わずエレベーターを選んで自室に戻った佐為は、ドアをばたんと閉める と、大溜息をついた。

やっと帰ってくれた。

今更ながら、はっきり駄目だと断わらなかったことを後悔した。
大体、あの人は この部屋に何をしに来たのだろうか。これといった目的もなく、ただあなたの部屋を 見てみたい、などと言い出し、何だのかんだのと妙な理由をまくしたて、 こっちがひるんだ隙に勝手についてくることを決めてしまった、あの女性。

普段から、何故か自分の周りをちょろちょろし、接していてもやたらエネルギーを 浪費する相手だとは思っていたけれど、自分のテリトリーである場所にまでずかずか 上がり込んで来られた今日は、本当に疲労困憊してしまった。

「あぁ・・・」

また溜息をつく。
平安、江戸、そして平成と、3つの時代を知っている佐為だが、決して古い 考えの持ち主ではない。積極的で押しの強い女性はいけ好かない、などとは全く思って いない。

けれど、あれはちょっと・・・。

居間にあの女性の香水の匂いが残っているのに気付き、佐為は顔をしかめた。

雨戸を閉めるついでに空気の入れ替えもしようと思い、窓を開けて網戸にした。
その間に寝室の雨戸を閉めてしまおうと、佐為は寝室に通じる引き戸を開けた。

「・・・おや」

ベッド脇に碁盤が鎮座している。はて、あそこに置いた記憶はないのだが。
更に その盤面を見下ろして、佐為は眉根を寄せた。自分の並べた覚えのない棋譜が、そこに 整然と残されているのである。

碁盤の脇にしゃがんで暫らくそれをじっと眺めた後、佐為はさっと立ち上がり、 居間に戻った。










詰め碁の本を読もうとしても、その紙面に佐為とあの女の映像がちらつく。

本を放り出してベッドに寝転び、ぼんやりと天井を見上ると今度は天井に映像がちらつく。

さっきからそればかり繰り返されていた。

この気持ちはなんだ?とヒカルは寝転んだ姿勢のまま考えた。

胃の辺りが焼け付くような不快感。これは何からきているのだろう、と真剣に答えを 求めようとするが、
肝心なところで考えがまとまらない。また脳が麻痺してしまって いるようだ。

そう、この感覚。
さっき、佐為の寝室に閉じ込められた 時にもこのような感じになった。考えたいのに、考えたくないような、理解しなければいけな いのに、したくないような・・・

そこへ、突然携帯が鳴り始めた。驚いて飛び起き、机の上に置いてある携帯を手に取って見る。

佐為からだ。

ヒカルは一瞬迷ってから、通話ボタンを押した。

「・・・もしもし」

『ああ、ヒカル?私です。ごめんね、こんな時間に』

「え、ああ、うん。大丈夫だよ。・・・どしたの?」

ヒカルはベッドに腰掛けながら訪ねた。

『ヒカル、今日、私のうちに来ました?私のいない間に』

「・・えっ・・・」

ヒカルは息を呑んだ。

『今日、帰ってきたらね、碁盤に私が並べた 覚えのない棋譜があるから、もしかしたらいない間にヒカルが来て並べていった んじゃないかと思って。それで電話したんですよ』

「あー・・・」

そうだ、あの棋譜。並べっぱなしにしたまま出てきて しまったのだ。今の今まで忘れていた。

「・・・うん、そうだよ」

ヒカルは急いで明るい声を作った。

「佐為が帰ってくるまで待ってようかと思ってさ。それで、あの棋譜、今日俺が大手合いで 打ったやつなんだけど、それを並べながら待ってたんだ。あーでも・・・途中で 気が変わってさ。俺、明日も早いし、佐為いつ帰ってくるかわかんないし、それで 6時半くらいだったかな、結局帰ってきちゃったんだよ。うん」

『ああそうだったんですか・・・』

佐為は納得したらしい。

『だったらすいませんでしたね、もっと早く帰ってこられれば良かったんですが・・・』

「気にすんなよ、仕事だろ?忙しそうだもんな。佐為、いまさっき帰って きたの?」

カマをかけるつもりなどないのに、ヒカルは何故かそう聞いて しまった。すると。

『・・・ええ、残業でね。今日は遅くなってしまって』

と答える佐為。

「ふーん・・・そいじゃまあ、ゆっくり寝ろや、な?」

『ええ、ヒカルもね』

「それじゃあ、おやすみ」

『おやすみなさい』

電話が切られた。

隙間風など入ってこないはずなのに、ヒカルは体の何処かでひやり、としたものを 感じていた。
携帯を持ったまま、ベッドに倒れるように横になると、難しい表情のまま固く目を瞑 った。





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