はやすぎず、そして充分歌うが如く







13.




「…酷い碁だな」

息苦しい沈黙を破ったのは、アキラのしれっとしたこの一言 だった。

「……ごめん」

ヒカルが気まずげに視線を手元に落とし、 ジャラジャラと碁石を集め出す。さっきまで展開されていた自分とアキラの一戦の跡 が、あっという間に崩れてなくなった。

……いや、あれを一戦と呼んで良いのかどうか分からない。ヒカルがただアキラをいた ずらに困惑させ、自分の方は勝手に自滅していったような、散々な一局だったのだし。

何も言い訳しようとせず、黙々と碁石を碁笥に戻しているヒカルの白っぽい顔、目の下 に薄く残る隈を見て、アキラは眉間に皺を寄せた。

「具合でも悪いの?」

さっきとは違う、気遣うようなアキラの言葉に、ヒカルは力ない笑みを作った。

「いや平気。昨日、ちょっと眠れなかっただけ」

「えぇーどしたのぉ?今日は何か顔色が良くないなとは思ってたけど」

ヒカルの言葉に反応した市河が、少し離れたカウンターから声をかけてくる。それを 合図に、さっきまでは若先生がいつキレるかと神妙にしていた常連客たちも、心配げに 言葉をかけ始めた

「いやホント、別に大したことじゃないから、大丈夫、うん。あぁ塔矢、今日こんな結果だし、 検討ナシな、ほんとごめん。次はちゃんと打つから、うんマジで。ごめん、今日はもう 帰るわ」

片手で『ゴメン』のポーズをとりつつ一方的にそう言うと、 ヒカルは席を立った。
そして、捲くし立てた口調に似合わないふらふらとした 動作でカウンターに立ち寄り、上着と荷物を受け取るとそのまま出て行った。

荷物を手渡した時に2,3言葉をかけた市河はともかく、アキラと常連客たちは何だか ぽかんとしてしまったまま、ヒカルの後姿を見送った。








一番最初に目に付いた自販機で缶コーヒーを買う。

それを一気に半分くらい飲み、ヒカルは溜息をついた。カフェインの覚醒作用と いうのは、摂取してからどのくらい経てば出てくるものなのだろうか。今は一刻も早く、 この頭の中がぼんやりした感じを払拭したかった。

・・・いや、眠気や倦怠感が取れたとしても、気持ちの方はきっとすっきりしない のだろうけれど。

残り半分のコーヒーも一気に胃へ流し込み、缶をくずかごに放り込むと、歩き出した。
当て所はない。この後の予定もなく、今日は久々のオフなのだが、 家に戻る気にはなれなかった。ヒカルは街の雑踏の中にふらりと身を投じた。

塔矢には悪い事をしてしまった。ヒカルは今更ながらそう反省する。
忙しいスケジュールの合間を縫って打つ時間を作ってくれているはずなのに、あんな 一局を打ってしまった。さぞ怒っているだろう。

昨日の夜あまり眠れなかった、というのは本当だ。あまりどころか、明け方まで まんじりとも出来なかった。それもこれも昨日、佐為の部屋で目撃してしまった事件の せいだ。あの衝撃が後を引いているのである。

歩きながら考える。自分は一体何にそんなにショックを受けているのだろう。

ヒカルは霞がかった頭を必死に動かし、真剣に答えを探そうとした。

佐為に彼女がいたからか?だったら何だというのだ?別に大した事ではないじゃないか。
佐為は大人なんだし、綺麗だし、優しいし、女性が放っておく方が不自然じゃない か。だったら別に・・・

そこで考えが止まる。駄目だ。ここから先は頭が回らない。昨日もこんな感覚があった けれど。

ひと組の男女とぶつかりそうになってしまった。ヒカルは慌てて侘びを言い つつ、道を譲った。そしてその場で立ち止まって振り返り、何となくその男女の後姿を見送る。

「・・・・・」

手を繋いで歩くその男女。佐為と昨日の女くらいの歳に見えた。

そしてその二人をきっかけにして、いま自分の周囲にいるカップルと思しき二人連れが 急に目に付きだした。皆、幸せそうで、街の雑踏に溶け込んでいながらも、その場に 二人独自の世界を持っているように見える。

他の者には見えぬ、彼らの持つ世界、時間。

「・・・・・」

ああ、そうか。

ヒカルは再び歩き出すも、急に頭の中に灯った考えに思考回路を支配され、歩みが さっきより倍くらいのスピードになってしまっている。その亀のような歩みと相反して、頭の中では かなりのスピードで考えが組み立てられていた。

佐為は、今の佐為は、正確には俺と一緒に過ごした藤原佐為ではない。
藤原佐為の生まれ変わりで、その魂と記憶の所有者ではあるが、佐為ではない。

彼は青木修馬だ。
あいつは、もはや俺に取り憑いていた幽霊ではない。俺に依存して自己を保っていた 存在でもない。
あいつはあいつという個を確立していて、その下で自分の人生を作っているのだ。自分 だけの。

だから、あいつがどんな生活を送ろうが、人間関係を築こうが、 全部あいつの自由。俺の介入する余地なんてないのだ。

そう、誰と恋愛関係になろうが、誰を愛して結婚しようが、全部佐為の自由なんだよな。
全部、佐為の・・・。

そこまで考えてハタと我に返った。そして身震いする。

今更こんなことに気付いている自分、そしてその事実に少なからずショックを感じている 自分、その両方がいることにヒカルは驚いていた。

俺はまだ、自分と佐為の関係を、4年前の延長のように思っていたのだ。実際は全然 違うというのに。

・・・ちょっとまて、それじゃ。

ヒカルはのろのろ歩きだった足をピタと止めた。歩道の脇で立ち止まって、目を瞬かせる。

今の俺って、佐為の何だ?

もはや取り憑き先ではないし、プロ棋士になって数年経っている今では、師と弟子 という関係も微妙だ。

と、なると。

今、俺と佐為を繋いでいるものは、一緒に過ごした過去の記憶のみでしかない、って ことか?

ヒカルは愕然とした。

そんなものなのか?俺と佐為の関係って。切ろうと思えばいつでも切れるような、 そんな弱いものだったのか?

自分の中にどろどろした感情が渦を巻く。何なんだ、この苦しさは。その正体は分から ない。ヒカルは軽い眩暈を覚えながら掌で自分の顔を掴んだ。



この時のヒカルは、本因坊リーグ第3戦があと数日後に迫っていることなど、すっかり 失念していた。




* * * * *





棋院に入ると、アキラはロビーに居合わせた顔見知りに軽く会釈しながら足を進めた。
今日は事務的な用事のみで此処に来たアキラだが、それは建前で、本当の関心事は別に ある。

今日は、ヒカルの本因坊リーグ第3戦の日なのだ。

対戦相手は 座間王座。自分が先日負かした相手である。多分ヒカルが勝つだろうとは思って いるが、
ついこの前、ヒカルの調子の悪そうな様子を目の当りにしたばかりだったし、 やはり気になって、結果をリアルタイムで知りたいと思った。この時間なら、もう 終わっている頃ではないかと踏んでやってきたのである。

先に事務に寄ってしまおうか、それとも進藤の結果を確認してからにしよう か、少し迷って立ち止まった時、

「どうしちゃったのかね、進藤は」

「まあ勝ったから良かったけどさ、でも冷や汗ものだったよな」

こんな会話が耳に入った。ハッとそちらに注意を惹かれる。
自分の方に歩いてくる二人組、伊角と和谷が目に入った。二人もアキラに気が付いたよう で、伊角は愛想良くアキラに向かって片手を挙げ、和谷は露骨に眉間に皺を寄せた。

「どうも。あの・・・終わったんですか?進藤の対局」

「ああ、まあな」

「進藤の半目勝ち。これで3連勝だな。でも・・・」

「でも?」

あまり晴れやかでない二人の表情に、アキラは訝しんだ。

「勝つには勝ったけど、何か・・・妙だったんだよ」

「妙?」

「そう。序盤はあいつにしちゃ珍しく、かなり手堅く打ってたらしい。暫らくそれが続いたと 思ったら急に暴走し始めてさ。面白い手って言えなくもないけど、此処でそれはない だろ、って手をばんばん出してくるんだ」

「ふざけてんのかと思われたらしいしな。でも失着も目立ち出すようになったあたり から、まだ堅く打ち始めて」

「終盤は何かもう良く分かんない状態になってたらしいよ。どっちの方が分がいいか 当人も分かってなかったっぽい。で、整地してみたら進藤が半目勝ってた、と」

「・・・・・」

アキラの脳裏に、先日会った時のヒカルの白っぽい 顔が浮かんだ。

「まあ、ともあれ、勝ちは勝ちだ。調子悪い時もたまにはあるんだろ、あいつも」

和谷がはやく会話を切り上げたそうにそう言い、髪の毛を掻き回した。 というより、はやくアキラと別れたいのだろうが。

「そうだな。塔矢、お前も第3局、そろそろだろ?頑張れよ」

「え、あぁ・・・はい」

アキラは曖昧に返事をした。

伊角と和谷と別れた後も、少しの間アキラはその場に突っ立ったままでいた。
まだ頭の中から、ヒカルの白っぽい顔が消えない。





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