はやすぎず、そして充分歌うが如く







15.




「いきなり電話寄越すから何事かと思ったら」

ヒカルは自分の目の前にいる、背の高い青年をチラと見やった。

「アホ。こっちに用事があって来たついでに、わざわざ時間作って会いに来てやったんやないか。 もうちょい嬉しそうな顔しろや」

社が腕を伸ばして、ヒカルの頭を小突いた。

「ついでにわざわざ、ってところが言葉おかしいと思うんだけど……」

「うるさいな。細かいこと気にすんな」

口先滑らかなところはやはり関西人 といったところか。久々に会うその関西人の友達に、ヒカルは少し気分が浮き立つような 気がした。同時に、さて何用で自分のところへ来たのか、という邪推も沸いて出て いたのだけれど。

ウエイトレスが注文を取って去っていったのを待って、社は切り出した。

「ま、お前がこの前変な一局を打ったゆうことはもう知っとるけどな、別にそれは 問題やないねん。今日は単にお前と喋りとうて来ただけや」

「……そう」

多分嘘ではないだろう、と思いながらも若干居心地の悪いものを 感じて、ヒカルはお冷を一口飲んだ。

社清春から突然電話を受けたのは昨日の夜だ。

「俺いま、東京におんねんけど」

と言う社に翌日の午後、こうして喫茶店で 会う約束を取り付けられた。ヒカルは、乗り気で乗り気でどうしようもないというわけ ではなかったのだけれど、マグネット碁盤は忘れずに持ってきていた。実際会ってみる と、気分が明るくなるようにも思えたのも事実だ。

唐突に社が切り出した。

「進藤、今一人暮らしやったっけ?」

「うん、そうだよ」

「そか。俺もちょっと前から始めてん。一人暮らし」

「え、ついに家出たの?」

「ああ」

「……じゃあお前、親に認めて貰えたんだ?棋士としてやっていくの」

社はお冷を煽りながら、んー、と微妙な声を出す。

「諸手を挙げて大賛成ってわけやない。ただ、もう反対する理由がなくなりつつある から、こっちの粘り勝ちってとこかな。高校も出てもうたし。ま、出るまでがちょっと 大変やったけど」

ヒカルは畏怖に似た思いを抱きつつ、目の前の友達を見上げた。碁の道でやっていくという ことを親に心配されこそすれ、反対はされなかった自分と比べると、社はこれまで どんなにやりにくかったことだろうと思う。

「高三になってすぐ、これからどうするのかってことでちょっと親と揉めてん。 親は相変らず、俺がすぐにでも碁をやめて、大学受験に向けて勉強始めてくれれば万 々歳って感じやった。予備校のパンフまで貰ってきてたんや。俺も今まで、自分が キレたらかえって事態が悪くなるだけやと思うて、ずっと辛抱してきたんやけど、 ついに限界がきてもうた。大喧嘩や」

「…………」

ヒカルは真剣な顔で話の続きを待った。

「ま、それはすぐに収まったんやけど……でも尾は引いとったな。そこから静かーに 冷戦開始って感じやった。親父なんかとは俺、けっこう長い間、必要最低限の口しか 利かへんかったしな」

「うわー……」

そこでウエイトレスが二人分のコーヒーを運んできたので、いったん話が中断された。
お互い自分のカップに砂糖やらミルクやらを入れて味を整え、一口飲んだ後、社が また話を再開する。

「でも、助けてくれた人がいてん」

「それって……師匠?」

ヒカルは社の師匠の、人の良さそうな顔を思い浮かべた。

「いや違う。センセイはセンセイでも学校の先生や」

「学校の先生?」

「ああ。三年の時の担任でな、まだ三十代入ったばっかの女 の先生やねん」

意外そうな顔をするヒカルに向かって 社は笑みを浮かべた。

「一学期の中頃に三者面談があってな。ま、これか ら先の進路相談ってことで三年生は全員やるんやけど、よりによってお袋やのうて親父 が来るって言い出しよってん。俺はもう嫌で嫌でたまらんかった。親父が先生に向こう て棋士の将来性だの何のと力説してそれに先生が流されて、俺の進路方向付けされても うたらどないしよと思って気が気でなかったんや。……そしたら」

社はコーヒーを一口飲んでから続けた。

「親父が、『親が願うのは子の幸せです。大成出来る保障もないのに、世にあっても なくても別に良いような勝負事の世界に生きる息子の姿なんて、危なっかしくて見てら れません』とか言いよったらな、先生、こうゆうてくれはったんや。『では、棋士 とは違う、普通の勤め人になれば必ず幸せになれるのですか?』って」

「…………」

ヒカルは目を丸くした。

「そう言われたのに親父が一瞬詰まったんや。そこに先生がたたみ掛けんねん。 『普通の勤め人になった人たちは皆、一様に幸せになれているのですか? 誰がそれを言えるのですか?』」

「うわ……」

「だけど親父も負けじと言い返しよった。『少なくとも路頭に迷うことはない。生活は 保障される』ってな。したら先生はこうや。『フリーターだって路頭には迷っていませ ん』って。にーっこりしよってな」

「…………」

「今度は親父がこうや。『じゃあ将来性のこと考えたらどうなります?その辺、フリ ーターも棋士も似たようなもんじゃないですか』。俺がそれ聞いてカチンと来た側で、 先生はこう言い返してくれてん」

ここで息継ぎの間があいた。

「『普通の勤め人も今は似たようなものだと思いますよ。いい大学を出て、いったん 就職してしまえば終身 雇用、行く末は安泰、というのはもう過去の話です。日本の企業神話は崩れ去り ました。そんな世の中で今、既にやりたいことや資格――俺の場合はプロ棋士の資格って ことやな――を持っているのでしたら、それを最大限生かしてみるのも、悪くないのでは ありませんか?』ってな。相変わらずにーっこりしたままで」

「……かーっこいー……」

「やろ?もう親父は何も言い返せへんのや」

ヒカルはもう冷めかけたコーヒーを一気に半分くらい飲むと、

「それで、 その後どうなったの?」

と急かす。

「帰り道、親父はむっつりしてた けど、その途中で、ぽつりと言ってん。『あの先生の言うことにも一理あるかも知れん』 って。そこから突破口が見え始めたんや」

社もここまで喋って、残りのコーヒーを全部飲んだ。

「卒業式の後、俺、先生にその話蒸し返して、改めて礼言ったんや。ほんまにあの時、 先生が助けてくれへんかったら、その後ちゃんと棋士やれてたかどうか分からへんもん。 そしたら先生、俺にゆうたんや。『私は昔、親の反対に負けて、将来の道を諦めて しまったことがある。あの時はあんな弁を並べ立てる力が自分にはなかったし、助けて くれる人もいなくて、そのまま流されるみたいに親の言うこと聞いてしまった。 あの時と状況がかぶって、つい頑張ってしまったんよ』って」

「へえ……」

「ついでに教えてくれてん。『反感を買いそうな内容を喋る時は、 笑顔で言った方ええ。その方が相手は何も言い返せへんもんよ』って」

「……ますますかっこいー……」

ヒカルはうっとり呟く。社はそんな相手に ちょっと苦笑いしてから、落ち着いた声音で言う。

「それ以来、俺の打つ碁には、その先生への感謝の分が入っとんのや。御陰でちょっと 持つ石が重く感じるような気もするけどな。でも、悪くはない。どのみち、これから 歳喰ってくにつれて、どんどん色んなモンが俺の碁に入っていくんやと思う」

社はカップの中を覗き込みながら続けた。ヒカルは黙って聞いていた。

「感謝やったり、プレッシャーやったり……時には恨みかもしれん。あまりにも重たなって、石が 握れんようになる日が来るかもしれん。でも、それを跳ね除けられるくらいつよなれる 可能性も一緒について回ると思うと、またそれも一興やと思う」

そこでいったん言葉を切ると、唐突に話を振ってきた。

「お前も同じちゃうんか?」

「え?」

ヒカルは動きを止めた。

「そろそろ碁石が重たなってきたな、って思うこと、ないんか?」

「…………」

ヒカルは身体や視線は動かさぬままだったが、右手だけぐっと握り締 めた。

少し沈黙が流れる。やがて、

「……堪忍な、別に説教するつもりなんて全然なかったのに」

と社が笑った。

「……いや」

ヒカルが低い声音で呟く。

「社の……言うとおりだよ」

そう言って顔を上げたヒカルの目は、急に 力を持ったように見えた。

「有難う、社。俺、弛んでたよ」











呼び鈴が鳴ったのを聞いて、佐為は不審に思いながら玄関に向かった。

時間は夜の 八時過ぎだ。客にしては時間が遅すぎる。が、扉の覗き穴から外を見ると。

「……ヒカル」

佐為は目を丸くした。何故こんな時間にヒカルが?と思ったが、すぐさま鍵とチェーン を外し、玄関扉を開けてやった。

「ヒカル、どうしたんですか?こんな時間に」

佐為の前に立つヒカルの顔は、何らかの決意を秘めているように見えた。





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