はやすぎず、そして充分歌うが如く







17.




ヒカルの両肩に加えた力を緩めることなく、佐為は強い口調で言った。

「もう会うのはやめる? 遠くから見ていてくれ? 何勝手なこと言ってるんですか。 冗談じゃない。私の気持ちは考えないんですか」

「…………」

ヒカルは肩を掴まれた格好のまま、唖然としている。佐為は続けた。

「今まで私が、どれほど我慢して我慢して、ヒカルの側に行きたいっていう気持ちを 押し殺してきたか、ヒカルは全然分かってない」

「……佐為」

「ようやくまた一緒にいられるようになったっていうのに、何でまた元に戻さなくちゃ いけないんですか」

掴まれた両肩に更に力がかかり、そのせいでヒカルの顔 が歪む。

「痛い、痛いよ佐為っ」

ヒカルがそう言いながら体をよじったので、佐為 はハタと我に返ったかのように両手を離した。その拍子に、ヒカルが一歩後ずさる。

「……ごめんなさい」

そう詫びてから佐為は三拍分ほど沈黙し、ヒカ ルの怯えたような顔を見据えた。そして、搾り出すような声で言う。

「……耐えられません」

「え?」

微妙な距離を置いたまま、向かい合って立っている二人。それを一歩、佐為の方から 詰めた。と思うと、
いきなりヒカルは正面から、佐為の胸に抱き込まれる。

「なっ……」

ヒカルは当惑しきり、相手の腕の中で目をぱちぱちさせるだけだったが、 耳元ではっきりと言われた言葉に身を硬くした。

「ヒカルと離れるなんて、もう私は耐えられません」

「……佐……為」

「分かって下さい。私は……ヒカルと一緒にいたいんです。あの時だって、藤原佐為 としてヒカルの前から消えようとしていた時だって……そう思ってたんです」

「…………」

「自分が消えると分かって、はじめの頃は、それこそもっと碁が 打ちたいとか、まだ時間が欲しいとか、そういうこと思ってましたけど、でも、 いよいよという時になってみると、私は……ヒカルと離れたくない、いつまでも一緒に いたい、一緒にいたいって……そればかり思って……」

懇願するような口調。

碁以外のことでこうも感情 的になる佐為など初めて見る。ヒカルは唖然としながらも、何処か冷静にそう思っていた。

なおも佐為は続ける。

「私が誰かを愛しく思う気持ちは、全部ヒカルにあげる。ヒカルだけのもの なんです。だから……」

佐為が一瞬震えるような感覚が伝わってきた。と思うと、抱きしめられている腕に 力がこもる。

「もう会うのはやめるなんて、言わないで下さい」

「…………」

その言葉を受け、ヒカルの中では、今日此処へ来るまでずっと保 っていた緊張がフッと解けるような感じがあった。

「……う」

「ヒカル?」

嗚咽のような声が漏れたのに気づき、佐為 が慌ててヒカルを自分の腕の中から解放する。
見ると、ヒカルはまだ唖然とした 表情のままで、目だけ潤ませている。と思うと、白い顔に音もなく涙が一筋伝わった。

途端に、佐為がおろおろし出す。

「ヒカル、ごめんなさい。ごめんね、取り乱して……ごめんね、ごめんね」

佐為は少し腰を屈め、左手をヒカルの片頬に沿わせ、右手では目元の 涙を拭ってやっている。その為ヒカルは、佐為としっかり顔を合わせるような格好にな る。

「……じゃあ、あの人は」

「え?」

「誰なの?あの人」

ヒカルがぼそっとそう呟いただけで、佐為は以前この部屋に入れたあの女性のことだと 察した。

「あの人はただの職場の仲間です。私とは何でもないんですよ。ただ ちょっと……何ていうんでしょうね、一時期付きまとわれてたっていうか」

「え、ストーカー?」

「いやいや、ストーカー行為なんて呼ぶようなものじゃありませんでしたけれど」

佐為は苦笑いしつつも、溜息混じりに言う。

「でも有難くはありませんでしたね。自分中心な性格なようで、ああやって強引に部屋までついて来ちゃったりとか して……まあはっきり断れなかった私も悪いんですけれど、正直、あれは迷惑以外の 何物でもありませんでしたよ」

「……なんだ、そうなの……」

ヒカルは拍子抜けした様子で息をつき、乱暴に目をこすった。

「しかもあの人、かなりの気紛れでもあるようで。今じゃ、すっかり別のエリート男性 に熱を上げてるみたいなんです。もう私とは挨拶くらいしかしませんよ」

「なんだぁ……」

ヒカルは完全に脱力し、片手をぺち、と額に当てた。失笑が 漏れる。

「俺、てっきり佐為の彼女なんだと思っちゃって……」

「ヒカル」

佐為が真面目な顔になった。

「私のせいでヒカルに嫌な 思いをさせてしまったことは謝ります。でもね、私は彼女なんか作りませんよ」

「…………」

「言ったでしょ?私が誰かを愛しく思う気持ちは、全部ヒカルにあげるって」

「…………」

きっぱりとそう言われ、ヒカルの顔に赤みが差した。

「お前、よくそんなはっきりと……」

「嫌だ、ヒカルだって言ったじゃ ないですか」

「え?」

「『佐為を他の誰にも渡したくない』って」

数分前に自分が言ったことを蒸し返され、ヒカルはますます赤くなる。が、佐為も少し 照れたような表情で笑った。

「……でも、嬉しかったですよ。そう言って貰えて」

「……そうなんだ」

「そうですよ」

お互い顔を見合わせ、また照れ笑いする。

「ヒカル」

「うん?」

佐為がヒカルの髪に手を伸ばす。そのまま手触 りを楽しむように撫でるのを、ヒカルは素直に受けている。

「私たちの間に生まれたこの感情、何て呼びましょうね?」

「……ん……」

ヒカルが少し目を伏せ、はにかむような微笑を浮かべた。

訊かれるまでもなく、既に答えは分かっている。












その後、ヒカルは本因坊リーグ第4局にて、文句のつけよう のないくらい見事な打ちまわしで緒方二冠を下した。その一局は、本来の調子を取り戻した というより、むしろ何か一山超えて進化した、という方が相応しいような内容 だったという。

更に続くリーグ戦においても、それを証明して見せるような対局を披露し、気づけば ヒカルの本因坊リーグにおける成績は、あと一局を残して今のところ全勝、というもの になっていた。




そして、その最後の一局をあと数日後に控えた日の午後。

「よう」

「……ああ、久しぶりだね」

棋院のロビーで、ヒカルは最後 の対戦相手であるアキラと、久しぶりに顔を合わせた。
お互い、前後に仕事が入っている ようで身なりはスーツ。それが二人をより大人びて見せている。

今回の本因坊リーグにおいて、今のところ全勝なのはヒカルだけではない。アキラも そうである。
したがって、次に控えた最後の対局で、勝った方が本因坊への挑戦者 となるのだ。

でも、そんな重大な対局が迫っているからといって、この二人はお互いを気まずく避け あったりなどということはしない。それとこれとは話が別、気持ちを切り替えればそれでいいのだ、というの が、二人の主義だった。

どちらともなくベンチに腰掛け、またどちらともなく話を始める。

「もうじきだね」

「俺たちの対局?……そだな」

それだけ言って、沈黙が 来る。でも嫌な沈黙ではなかった。この二人には、必ずしも言葉は要らない時間という ものが時折あるのだ。

だが、やがて思い出したようにアキラが口を 開いた。

「ねえ、覚えてる?」

「うん?」

「ずっと前。 僕と君が会ってすぐの頃。君、『ちょっとプロになって、タイトルの一つや二つ取る』 とか何とか言って、僕を凄く怒らせたことがあったよね」

「……あー……。そんなことあったなぁ」

ヒカルは苦笑しながら頭をかいた。

「そりゃ俺だって、今からすればあれがとんでもない失言だったとは分かってますよ? いくら子供だったとはいえ」

「それは僕も否定しない。……だけど」

アキラはヒカルの顔を 見据えた。

「現実、君はもうタイトルに手を伸ばそうとしているんだね。それも19歳で」

それを聞いてヒカルはまた苦笑する。

「それはお前だってそーだろうが」

「まあね」

アキラも笑った。

そして少し間を置いた後、アキラはふと 溜息をつき、独り言のように言い出した。

「本当に君って人は、一体何者なんだろうね。碁の履歴にせよ、棋力にせよ、何も かも常識じゃ測れない。いつも周りや……僕を掻き乱していく。気づけばもう、本因坊 を狙えるようにまでなってて……」

ヒカルは黙ってアキラの言葉を聞いていた。 が、やがて、ふっと表情を緩め、斜め上を見上げるように言った。

「俺一人の力じゃねーよ。お前みたいに、いつも俺を引っ張り上げてくれるような碁 仲間たちとか、自分の親とか碁会所のおじさんたちみたいに応援してくれる人たちとか、 それに……気持ちの拠り所になってくれる 相手とか、とにかく色んな人にエネルギーを貰って、俺の、ヒカルの碁は出来て きたんだもん。俺だけの力じゃ無理だったよ」

そう言った自分の意見に、アキラは共感してくれるのではないかとヒカルは思っていた。 だが返ってきたのは、ぽつりと呟くような確認の言葉。

「いるんだ?」

「え?」

「気持ちの拠り所になってくれる相手……いるんだ?進藤には」

彼の声が妙に硬いように思えたが、ヒカルは一回ゆっくりと瞬きをしてから、 はっきり言った。

「いるよ」

ヒカルがそう言ってから一拍置いて、アキラはヒカルの方に顔を向けた。そして目に 入ってきたのは、
とても満ち足りて、幸せそうな、綺麗な顔。

こんな顔をしたヒカルを見るのは初めてに思えた。同時に、何だか全てを悟ってしまった ような気もした。

「……そうか」

アキラは俯いて、頷いた。

「なら、よかったね。幸せ者だね、君は」

噛み締めるようにそう言ったアキラ の言葉に、ヒカルは強く答えた。

「ああ」

そして、また少しの間の沈黙があったが、やがてヒカルが立ち上がる。

「……じゃ、そろそろ行かなきゃ。院生のうちで指導碁頼まれてるからさ」

「そうか。僕もこれから取材なんだ」

「おう、じゃあ、また対局場でな」




ヒカルと別れてからしばらくの間、アキラはまだベンチに一人 座ったままでいた。そして時折、俯いた姿勢のまま目を強く擦っていた。

だが、やがて立ち上がり、何かを吹っ切るように歩き出す。

もう、いつもの勝負師の顔を取り戻しつつあった。












そして月日は流れた。

度重なる激戦を切り抜けた、まだあどけない面差しを残したままの青年は、その日、 猛烈な取材攻撃を何とか乗り切って、一人駆け足で対局場を後にした。

そして屋外で、すぐ側まで来ているであろうと思われる人の姿を探す。

この報せを、誰よりも速く届けたい相手。

「……あ」

いた。数メートル先に。真っ直ぐに立ってこちらを見ている。

とてつもなく綺麗な顔をした、髪の長いその相手は、青年の表情だけで報せの内容を汲み 取ってしまったらしく、こちらが口を開く前に、にっこり微笑みながら言った。



「おめでとう。私の、世界にたった一人の本因坊」



青年は満面の笑みで、相手に向かって走り出す。











 <完>   此処までお読み頂き、まことに有難う御座いました。

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