はやすぎず、そして充分歌うが如く





2.

次の日の午後、ヒカルは碁会所にぶらりとやって来た。

「いらっしゃい…あら、進藤君!」

受付嬢の市河晴美の声を合図に、 おおっ、という歓声が沸く。

「進藤君!リーグ入りしたんだって?」

「おめでとう!頑張れよ」

「まあ、若先生もいるんだし、簡単じゃねえけどな」

「でも面白くなりそうだねえ、期待してるよ」

常連客たちの賛辞や励ましに、 笑顔で答えつつ、ヒカルは奥の席に足を進めていった。片方の椅子には既に 座っている青年の居る、いつもの指定席。

ヒカルが、よう、と短く挨拶をして席に座るや、彼は読んでいた詰碁集を閉じた。そして 少し口の端を上げて笑い、開口一番、

「見たよ」

と言った。

「うん?」

ヒカルが意味を取りかねて首を傾げると、塔矢アキラは少し声の調子を 下げ、前に居るヒカルに向かって身を乗り出すように言う。

「昨日の夜、ネット碁」

まるで暗号のように、重要語句のみを告げるアキラ。 黒目勝ちの瞳が面白そうに光る。

「ああ…お前、あれ見てたの?」

ヒカルが、着ていたパーカーを脱ぎながら笑った。

「最初から見てたわけじゃないよ。緒方さんから電話を貰ってね、慌ててPCを立ち上げた んだ」

「緒方先生が?」

「そう。あの人、今でも頻繁にあのサイトに アクセスしちゃ、”sai”が来てないか探してるみたい。で、昨日あの”sai”対”shu” の対局を目の当りにして、すぐ僕に教えてくれたんだよ。ネット碁見ろ、って」

「へえ…」

そこまで話したところで、市河がお茶を持ってきてくれたので、 二人の会話は途切れた。それを一口飲んだ後、アキラはさりげない調子で言った。

「君なんだろ?あれは」

アキラはとっくに真相を捕らえていたらしい。しかしヒカルはあまり驚かず、 さらりと聞き返す。

「どっち?”sai”か、それとも”shu”?」

「どっちが君でもおかしくないと思ったけどね…両者とも、昔の”sai”に重なるところが あまりにも多かったから。でも…」

アキラはまたお茶を一口飲んだ。

「"sai"の方が君だろ?」

確信を持った口ぶりに、ヒカルは、

「ちぇ、負けた方当てられるなんざ癪だけど……そうだよ」

と少し膨れながらも 頷いた。

「そっかあ…お前には分かったのか。何でもお見通しだなあ、お前は」

「当たり前だろ。何年僕が君のライバルやってると思ってるの」

「はいはい。……つーか、お前以外に分かった奴、いねェよな?今更こんな事言うのも 何だけど、”sai”の名前使っちまった手前、ばれると面倒な事になりそうだし…」

「いや、それは多分、大丈夫だと思うよ?」

アキラは首を振った。

「僕、さっき棋院に行ってきたんだけど、若手の棋士を中心に凄く盛り上がってたんだ。  『いまだ正体不明の”shu”が、久々に現れた伝説のネット棋士”sai”を負かした!』ってね。 でもそれだけ。進藤が昨日の”sai”じゃないか、って話は全然出てなかった。 棋譜並べてる院生達もいたけど、誰々の棋風に似てる、とかいうことは言ってなかったと思うし。 ……まあ、人によっては分からないけどね。緒方さんとか」

確かに、緒方に関しては、以前ヒカルがsaiと何らかの繋がりを持っているものと踏んで、 ヒカルに、自分も”sai”と打たせろと激しく詰め寄ったことがある。 『ヒカル=昨日の”sai”』という図式を疑う以前に、また”sai”が現れたというだけで、 ヒカルに対して何らかのアクションを起こしてくる可能性は高い。

暫らく近寄らない方がいいかもよ、とアキラは真顔で言った。

「そっかあ…じゃあ別のハンドル使えばよかったかなあ…」

今更頭を抱えるヒカルに、アキラは真顔を崩さぬまま聞いた。

「…で、どうして君は、”saiと名乗ったの?いや、そもそも、昨日に限ってどうして ”shu”と対局を試みたんだい?本因坊リーグ入りを賭けた大事な手合いの後で、 疲れてただろうに」

「あぁ…」

ヒカルは、昨日、和谷から”shu”のことを始めて聞かさ れたのだ、ということを掻い摘んで説明した。

「あのさ、念の為言っとくけど、俺は『伝説の”sai”』じゃない。それは知ってるよな ?」

「うん」

アキラは頷いた。

「でも、俺は”sai”の碁を継いでる。それも知ってるだろ?」

「…うん」

アキラは以前、自分がヒカルに言ったことを思い出した。 『君の中にもう一人いる』と。

「俺は佐為を継ぐ棋士で、まだまだあいつには及ばないしても、もう随分強くなったと 思うから、”sai”の名前を使ってもいいんじゃないかと思ったんだよ。そんだけ」

ヒカルの返答は至ってシンプルだった。何処か影がありつつも、クリアな言葉。
しかしヒカルは、自分が昨日”shu”に挑んだ理由に関しては、まだ自分でも導き出せず にいた。

そのことは、何となくアキラにも伝わったらしい。

ヒカルはまだ、アキラに佐為のことをきちんと話してはいない。 「いつか話すかもしれない」といった時から殆ど何も。

しかしアキラは、ぼんやりとした”sai”もとい佐為の輪郭のようなものを、ヒカルの言葉の端々から 察知し、無意識のうちに自分の中に蓄積していた。ヒカルがまるで、昔話とか親戚の 話をするかのように『佐為』とか『あいつ』という話を出しても普通に聞けるくらいには。

しかし、そういう時のヒカルの懐かしそうな、また切なそうな表情や話し振りに、 胸の焼け付くような感情を覚える事もあるのだが。

「…そう。それなら、昨日の一局は”sai”に相応しい内容だったと思うよ。負けたけど、 恥ずかしくない碁だった」

「そうかなあ。でも、やっぱその前の対局の疲れが微妙に 残ってたのかも………あっ!!」

突如、ヒカルが大声を上げた。

「な、何だよ、進藤。いきなり…」

「忘れてた!あの”shu”って奴、俺が 誰だか分かったみたいなんだよ、一局打っただけで!」

「…え?」

ヒカルはぎゃーぎゃーと、”shu”がチャットで本因坊リーグ入りを 祝福する言葉を贈って来たこと、棋風であなたが誰だか分かった、 いつも活躍を楽しみにしている、とまで言ったきたことを説明した。

アキラは呆気に取られていたが、やがてやや伏目がちになり、テーブルの上で手元をごそ ごそやりながら、

「それは…君はファンが多いから…」

と、ぼそぼそと 言った。

「いや、そういう問題じゃなくてさあ」

ヒカルはいつになく 物言いのはっきりしないアキラを不思議に思いつつも、

「ネット碁で一局打って、打ち筋と棋力を見ただけで、相手が誰だか当てちまうなんて、 単なる囲碁ファンの出来る芸当じゃないぜ。そうだろ?」

「…じゃあ、マニア?」

「ちげーよ!」

だからそういう問題じゃなくて さあ、とヒカルは片手で髪の毛を掻き回しながらエキサイトする。
急に天然少年っぽく(?) なってしまったアキラとセットで眺められると、かなり珍妙な光景に見えるのであろうが、 幸い、周囲の常連客は慣れているのか、放って置いてくれている。

「”shu”は、俺の棋力と打ち筋をよく知ってて、俺の身の回りに起きたこともその日の うちに知る事が
出来る奴、つまり…」

「君の身近な囲碁関係者の中にいるかもしれない、ってことか?」

アキラが目を丸くしながら結論を述べた。ヒカルが、そういうこと、と頷く。
そして二人の間に数秒の沈黙が流れた。

「…身近に進藤マニアが…」

というアキラの呟きで、再びやかましくなるのだが。

「だからお前、マニアから放れろや。……つーか……」

ヒカルが 一端言葉を区切り、じいっとアキラの顔を見、そして、

「……お前じゃないよな?”shu”って」

「な、何言ってるんだ!」

アキラは驚いて首をぶんぶん振った。

「僕の碁と明らかに違うだろう、”shu”の碁は」

「分かってる分かってるって。冗談だよ、マジに取んなよ」

俺がお前の碁と間違う筈ねえじゃん、と明るく笑うヒカルを 前に、アキラの顔が微妙に赤くなった。

「でも……ほんとに誰なんだろうな、 あいつ。また対局して下さい、って言われたけど…」

「また?」

アキラが素早く反応する。

「ああ。和谷の話じゃ、 しょっちゅうあのサイトにきてるらしいから、俺が探せばまたすぐ打てるんじゃねえかな」

やっぱり進藤マニア……と複雑な面持ちでアキラが呟くも、碁笥を引き寄せて蓋を開けて いるヒカルの耳には届いていないらしい。

「つーか、お前はさ…」

おもむろにヒカルが言った。

「めでたくリーグ入りした俺に、おめでとうの言葉は言ってくれない わけ?」

上目遣いの視線で、にまっと笑いかけられ、アキラは一瞬どきりとしたものの、すぐ 返した。

「…言うまでも無いことなんじゃないか?君が来るであろうことは、僕に は最初から分かってたんだから」

「へえ、そうなの?」

「そうだよ」

澄ました顔のアキラ。くくくっと笑いを漏らすヒカル。

「…打とうか?」

「ああ」

二人の間に、いつもの空気が流れ始めた。





珍しく派手な喧嘩も途中退室も無く、二人が平和に碁会所を後にした時、既に日は 落ちかけていた。

「ちょっと早いけど、メシ食ってく?」

「いいけど、ラーメンはやめてくれよ」

「えー何で?」

他愛の無い会話をしながら、ヒカルとアキラはネオンの輝き始めた街なかを 歩く。

「ところで進藤、もう準備した?来週の…」

「ああ、あのイベント?」

来週、アキラとヒカルは、日本棋院と関西棋院の合同企画の、囲碁ゼミナールに 参加することに なっている。都内のホテルに2泊3日滞在しつつ、そこで指導碁や大盤解説をするのである 。
また、久しく会っていない関西棋院所属の棋士、社清春も参加する。だからヒカル にとっては、仕事よりも社に会う方がメイン見たいなもので、何週 間も前から指折り数えて楽しみにしていた。

「まだ準備とかは全然。まあ近場なんだし、そう気張る事もねェだろ。あーでも楽しみだよなあ、 久々に社と打てるんだからさあ」

「彼、最近、調子いいみたいだしね」

「ああ。どのぐらい強くなってるかなぁ。仕事済んだら、お前んとこの碁会所で3人集まって打とうぜ。また早碁対決とかさ」

「そうだね、彼の都合があえばいいけど」

日頃、盤を挟んで火花を散らしているライバル同士の二人も、碁を離れれば至って普通の 友達同士に等しい。穏やかな空気を共有しながら、街に溶け込んでいった。








その瞬間、彼は全身に電流が走ったかのような衝撃を受け、その場で立ち止まった。

信じられない。まさかこんなところで…。

しかし自分の目が、自分の耳が、あの子を間違える筈が無い。

すぐさま振り返り、たった今すれ違ったばかりの二人の少年のうち、背の低い方を目で 追う。
追い駆けて腕を取りたい衝動に駆られるも、辛うじてそれは押さえた。今行って、あの子 が信じてくれるとも思えなかったし、自分が冷静にあの子に接することが出来るとも 思えなかった。

手を伸ばせば掴めそうなところにいるのに、それが出来ないもどかしさ。

彼の唇から苦しげにあの子の名前が漏れた。

「ヒカル……」




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