はやすぎず、そして充分歌うが如く





3.

ヒカルはディスプレイに向かって、投了の宣言を打ち込んだ。

「あーくそー…」

椅子の背もたれに寄りかかり、天井を仰ぎながら大溜息をつく。

「勝てると思ったんだけどなあ…」

一人ごちながら身を起こし、 再びディスプレイに目をやると、既に別窓が開いていた。”shu”からのメッセージが打ち込まれて いる。

『148手目が勝負の分かれ目でしたね。それまで相当追い詰められていた感がありましたよ、 私』

ヒカルはそれを読むと首を2、3回まわしてからキーを叩く。

『今日は勝てる気でいたのに、やっぱ俺のヨミが甘かったってことだね。うー悔しい』

そう打ちながら、ヒカルは本当に声に出して唸る。”shu”の言葉が続く。

『でもあなたも、思いもよらない高度な手をどんどん打ってきたじゃありませんか。 焦りましたよ』

『それでもshuの方が上だろ?ほんと、どうしてこんなに強いのにプロじゃないのかって 思うよ。棋戦で闘えたら相当面白いことになりそうなのにさ』

『ええ、私も出来ることなら、あなたとちゃんと碁盤を挟んで打ちたいと思いますけれどね。 まあ仕方ありませんよ』

ヒカルは、”shu”のこの言葉に、むー、と唸ってから、またキーに手を伸ばした。








彼はディスプレイの文字を眺めながら、思わず、ふふっと笑いを漏らした。

姿は見えないのに、相手の少年が負けを悔しがり、唸っているさまが目に 浮かんでくるようだ。
それが微笑ましく、つい顔が綻んでしまう。

向こうからのメッセージが来た。

『ねえ、直接会えないのかなあ、shuって何処に住んでんの?』

彼はこの言葉にちょっと身構える。何と答えればいいだろうか、と少し考えてからキーを 叩いた。

『都内ですけれど、でも会うのは……難しいですね』

何で?と問われたらどうしようか、と思いながら送信する。
すると、 送信したのとほぼ同時に、PCの脇に置いてあった携帯が鳴リ出す。それをちらっと 見て、発信者を確認すると、向こうのメッセージが打たれるより先に、すばやくPCのキー を叩いた。

『すみません、電話がかかってきてしまったので、今日は これで失礼しますね』

それだけ打つと、一方的にチャットを終了させながら、携帯に 手を伸ばした。

「はい、もしもし」

受話器の向こうから、若い男の声が聞こえる。

『ああ、青木さん?どうも、しばらくです』

「いえ、こっちこそ。 この前はすみませんでした。ちゃんとお礼も言わなくて」

彼は話しながらPCの電源を落とした。

『いえいえ、いいんですよ。こっちは殆ど仕事なんですから。ああ、それよりね、 新しい情報なんですけれど』

「…ヒカルの?」

『それ以外、何の用事で僕が電話すると思ってんですか?』

双方から短く笑いが起きる。

『ええとね、進藤君ね、来週、2泊3日で囲碁ゼミナールに参加するんです。で、場所がね、板橋の メシアンホテルなんですよ。知ってます?』

彼は息を呑んだ。

「ええ、勿論。職場の……すぐ近くですもん。ほんと、目と鼻の 先ですよ」

『ああ、やっぱり!確か近くに青木さんの会社があったような気が してたんですよ。ああ、それでね、そのイベントは日本棋院と関西棋院の 合同企画で、両棋院の棋士が混ざって参加するそうで、 社清春も来るんだそうですよ。あと、塔矢アキラも』

「ほう。で、ヒカルも加わる、と…。北斗杯常連メンバーのスリーショットが拝めるって わけですか」

『ま、そういうことです。悪く無いでしょ?……でも青木さん、いつもの如く参加はしないんでしょ? まあ、教えるのが今更になっちゃましたし、どのみち、参加申し込みの締め切りも過ぎ ちゃってますし』

彼は小さく溜息をついてから、電話の相手に告げた。

「……ええ、しません。うっかりあの子と顔でも合わせてしまったら、洒落になりませんから……」







電話を切った後、彼はPCデスクの椅子に腰掛けたまま、思いをめぐらせる。

こうやって、あの子の記事の載った雑誌を買い漁ったり、スケジュール やら、棋戦の勝敗やら、その棋譜やら、あの子に関する情報を逐一報告して貰っては自己満足に浸るようになって、早4年。
正直な話、そろそろそれも歯痒く なりつつある。

それに拍車をかける事件も、つい先日あった。全くの偶然 で、あの子とすれ違い、直接顔を見、声を聞いてしまったのだ。

「あぁ……―――」

彼の頭が垂れ、溜息が吐き出される。

会いたい。会って直接話がしたい。ちゃんと盤を挟んで碁を打って、そして……。

4年間ずっと思い続けてきた事だけれど、一度直接あの子を見てしま ったことから、さらにその思いが募る。

しかしそれは無理なのだ。

自分 は良くても、あの子にとってはマイナスになりかねない。それ以前に、今の自分の受け入れてくれ るかどうかすら怪しい。いずれにしても、酷く動揺させることになるに決まっているし、 それがもとで、あの子の碁に支障をきたすような事態になることだけは避けたい。

……しかし、それもあの子が自分に気付けばの話。気付かなければ、問題ないのでは なかろうか。
それこそ自分が、離れた場所から一方的にあの子を見ているだけだった ら…。

そんな考えが浮かんでくる時点で、随分と堪え性が無くなってきているな、 と彼は溜息をつく。

かなり長い時間、彼は椅子に身を預けたまま、何やら考え込んでいた。













 疲労こそ感じないものの、ヒカルは、出来ることなら早くジャケットを脱ぎ捨て、ベッドに 転がって大きく伸びでもしたい気分だった。

こういう、ファンとの交流や指導が絡むイベントへの参加はもう慣れたけれど、対局 とは別の意味の緊張も伴うし、気も使うし、腑に落ちない事態に遭遇することもある。
一応社会人とはいっても、ヒカルはまだティーンエイジャーの域を脱していないのだから、 完璧に上手く立ち回れないこともあるのは、まあ仕方の無いことかもしれない。

こういう点の意見に関しては、ヒカルと社は妙にウマが合う。

「別に碁が好きな人たちに教えるんは、全然嫌やないねんけどな。でも未だに慣れへんわ。 ファンサービスとか、お愛想とか」

イベント最終日の前夜。立食パーティの席。
親世代またはそれ以上のファンの面々との交流もひと段落し、 ヒカルと社はネクタイを緩め、広い会場の隅っこに座って、本音を漏らしながら笑った。

「まあ、それなりに楽しいことも多いけどな。でも何だかんだ言っても、俺達って客商売 なんだなあって思うよ。こういう仕事の時って」

「ホンマやな。そこへいくと塔矢は慣れてるみたいでええな。大人受けしまくりやし」

「うん。あいつ、子どもの時から大人に囲まれて育ったらしいもん。でもその代わり、 俺達くらいの歳の奴等に混ざると、浮くよ。あんま仲良くない相手だとさ―――いや、あいつと 仲良い若者なんてそんなにいねェけど―――俺を通して会話すんの、あいつ。相手に聞かれた ことでも俺に向かって答える、みたいな」

社が吹き出した。

「へえ…たまにそういう知り合いっているよなぁ。お前いつもそうやって塔矢の面倒 みてるんか?ライバルっちゅーより旦那の世話焼く奥さんみたいやないか」

「何だそりゃ。別にいつでも一緒ってわけじゃねェよ。でも、あいつと本音で 喋れて、怒鳴りあいの大喧嘩まで出来るのって、多分俺だけだと思うぜ」

「…えらいノロケようやなぁ」

「はあ?別にノロケてねーよ。そういや、その塔矢は?何処行った?」

ヒカルが視線を遠くに投げるように、きょろきょろと周りを見渡す。

「さあ…挨拶まわりしてるうちにはぐれてもうたからな」

「会場の中にいねェのかな。トイレかな。つーかさ、この仕事が終わったらさ、塔矢の碁 会所で、社も入れて3人で打ちたいなって話してたんだぜ。言う機会なかったけど」

社の顔が明るくなる。

「ホンマか?なら1日か2日くらい、また塔矢んちに泊めて貰えへんやろか。俺、向こう2, 3日なら暇やし、お前等とは会えた機会にみっちり打っておかな」

「それなら、俺も泊めて貰おっかな。また合宿みたいで面白そーだし」

「塔矢のウチの方、都合つくやろか?」

「確か塔矢先生とおばさんはまだ海外だって言ってたと思うけど……じゃあ俺、塔矢探し にいくついでに聞いてこよっと」







ヒカルは一人でふらっとロビーに出た。
社を一人会場に置いてさっさと出て来てしまったので、また ファンのおじさまがたが彼に寄ってたかっているかもしれない、と思うと少し気の毒な 気もしたが、深く考えない事にした。

「塔矢はどーこかなー…」

ヒカルは当てども無く、視線をきょろきょろさせ ながら歩く。すると、

「あっ!進藤プロ!」

ソファとテーブルの置かれたスペースから、子どもの声があがったと思うと、 あっという間に小学生くらいの子ども達が3人、ヒカルに駆け寄ってきた。恐らく、 このイベントに親と一緒に参加している子達だろう。

「進藤先生、あたし大ファンなんです〜」

「俺もー」

「サインして下さぁい」

きゃあきゃあ言いながら彼等は、ポシェットやジーパンの ポケットの中から、メモ帳やら紙切れやらを出してヒカルに差し出す。

基本的にこういう ファンサービスは断らないようにしているので、ヒカルは苦笑しながら、ジャケットの内ポケットに挿しているボール ペンを出して、差し出される紙に手早く『進藤ヒカル』、と書いてやった。請われるままに、 相手の子の名前まで一緒に書いてあげたりもする。

「今度、院生試験受ける時に、これお守りにします!」

「先生、本因坊リーグ、頑張って下さい!」

「いつも週刊碁で見てますよ」

何処までも無邪気な彼等に、ヒカルが、

「おう、君達も頑張れよ」

笑顔で答えると、3人はまた、きゃあきゃあ声を上げながら走り去って いった。

あの子達の中から未来のプロ棋士が育ってくれればいい、自分がこのイベントで指導した というだけでも、彼等の成長過程に貢献出来た事になるのなら嬉しいのだけれど、と 思いながら、ヒカルは彼等の背中を見送った。

「おっと、塔矢探してたんだっけ…」

初心に帰ったヒカルは、まだ手に 持っていたボールペンをジャケットの内ポケットに戻そうと、多少俯き加減になりながら、ろくろく 前を見ずに廊下の角を曲がろうとした。その時、

「わっ…」
「あっ」

反対側から来た男性と、もろに正面衝突してしまった。 ヒカルはぶつかった衝撃から2、3歩あとずさる。

「す、すいません」
「いえ、こっちこそ…」

双方がほぼ同時に謝って、 互いの顔と目線が合わせられた、次の瞬間。

ヒカルは落雷でも喰らったような衝撃を受け、その場で凍り付いてしまった。
相手の顔から目線を外せないまま、呆然と口を開きかけるも、言葉が出てこない。

相手の男性もかなり面食らっているようだったが、こちらは口を利いた。呟くように、

「ヒカルっ……!」

と。




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