はやすぎず、そして充分歌うが如く







聞き間違いだろうか。

いや、確かに今この男は、俺の名前を呼んだ。俺に向かって、ヒカル、と言った。

知らない相手なのに、呼び捨てにされる謂れは無いはずなのに、「ヒカル」と。

………いや。

知っている。

この綺麗な顔も、この甘さの強いテノールの 声も、身に纏っている穏やかな空気も。










………………嘘だろ……?







4.


そうやって、何秒くらい自分は固まっていたのだろうか。ハッと我に返ると、ヒカルは、

「すっ…すいませんでした!」

男に向かって素早く頭を下げ、ぶつかったことを詫びると、くるりと踵を返す。
とにかく、 一刻も早く此処を離れなければいけないような、あの男を見てはいけないような気がして。

ヒカルは小走りにその場を立ち去ろうとした。しかし、男が後ろからヒカルを 呼び止める。

「あっ、あのっ!落としましたよ!」

……やめてくれ。

呼ばないでくれ、俺を。あいつと同じ声で……。

しかし、一刻も早く逃げたい気持ちに反して、身体は動きを止めてしまう。そして、怖々 振り返る。

男が、こっちを向いて真直ぐに立ち、右手に持ったもの を、自分に向かって差し出している。

「…これ……」

ヒカルのボールペンだった。ぶつかった 時に落ちたらしい。

「…あ……すいません」

小声でぼそぼそとそう言いながら、ヒカルは一歩、男に近づく。

双方の距離、役5メートル。また一歩、また一歩と、ヒカルは男に近づいてゆく。
動悸が高まっていく。顔色は蒼白になり、掌には汗が滲む。

そんなはずはない。この人が、あいつであるはずがない。
確かに、似過ぎている程似ているけれど、でも、あいつであるわけがないんだ。

そう分かっているのに、震えが、止まらない。

すると、男が半歩ほど進み出た。穏やかながらも、真剣さを湛えた瞳は、さっき からヒカルの顔をじっと見ている。そして、口を開いた。

「…ヒカル」

また名前を呼ばれた。心臓が跳ねる。

男は、ボールペンを持った右手を、すっとヒカルに向かって 差し出す。

「私が……分かりますか?」













その瞬間、突然時間の流れが止まったように思えた。

覚えている。そう、あの時の夢。

こうやって、あいつは俺に向かって、扇子を差し出して くれて、そして………。




















――――――佐為






目の前が暗転した。













アキラは溜息をつきながら、ひとりロビーを歩いていた。

ついぞさっきまで、父を贔屓にしてくれいた人たちに暫らく捕まっていたのである。随分酒も飲まされた。

未成年ですから、という真っ当な断り文句は、こういう場所ではあまり役に立たないものらしい。
まあ、決して弱くは無いので、そのまま潰れるなんていう事態にはならないことがせめて もの救いか。

いずれにしても、棋士というのは、碁だけ打っていればいい職業と いうわけではないことを、こういう時に思い知らされる。何故こうも自分は、無駄に 大人に好かれるたちになってしまったのだろうか。人に好かれる、という点では、ヒカル にも社にもいえることなのだが、それは自分の場合と少し勝手が違う。

正直、憂鬱な気分だった。

が、それが一気に吹っ飛ぶ事態に、アキラはこの後、遭遇する事になる。



「ヒカル!どうしたんですか?!ヒカル!」

切羽詰った男の声が耳に飛び込んできた。『ヒカル』という名前にアキラはすぐに反応 した。

進藤か?

アキラは声のした方に足を向ける。そして、エレベーターホールに 続く廊下を曲がった、角のところに行き着いた。そこにいたのは…

しゃがみ込んでいる若い男、その男の腕の中で、仰向けにぐったりと倒れている、スーツ姿 の少年。
…………進藤?!

「進藤っ!!」

アキラは咄嗟に名前を呼びながら、駆け寄った。
ヒカルを抱きかかえている男が、ハタと振り返るも、アキラはそれには構わず、目を閉じた まま、どうやら意識の無いらしいヒカルの肩を掴んで揺すった。

「どうした?! おい、進藤?!」

しかしその手を、横にいる男が止めた。アキラは、その男にキッと鋭い視線を向ける。

「無理に動かさない方がいい。とりあえず、落ち着いて横になれる場所へ」

「あ、あのっ…」

「私の部屋が3階にありますから、この子はそこで寝かせ ましょう」

取り乱すアキラに対して、男は冷静だった。ヒカルをお姫様抱っこの 形で抱え、立ち上がると、大また歩きでエレベーターを目指す。

「え、あのっ…ちょっと…!」

事態を飲み込みきれていないアキラに、男は振り返りながら言った。

「なんなら、一緒に来られます?」






とりあえず、アキラはこの男の行動に黙ってついていく ことにした。

会話の無いまま、エレベーターで2階分上がり、着いた場所はこの男の泊まっているらし き、シングルの客室。アキラはすぐにドアの横にあるネームプレートを見た。

『青木修馬様』とある。これがこの男の名前なのだろうか。

「すみませんが、ちょっとポケットからキーを出して貰えません?手が塞がっている んで。ジャケットの右の…」

ヒカルを抱きかかえているので、男はカードキーをアキラに出してくれと頼んだ。
アキラはすぐ、男のジャケットの右ポケットに手を入れてキーを出し、ドアを開けてやった 。

「ありがとう」

男はそう言うと、ドアを足で押すというより蹴るように して、部屋に入った。

「どうぞ、中へ」

男がそう言いながら、暗い室内 にどんどん足を進めていく。アキラはそれについていく道すがら、室内灯をつけて やった。

男はてきぱきと行動した。ヒカルをベッドに寝かせ るとと、ジャケットを脱がし、ネクタイを緩め、首筋に手を当てて脈を確認する。

「大丈夫なんですか、彼は」

アキラの問いかけに、男は少しまなじりを下げ、 頷いた。

「ええ、大丈夫なようですよ。少しラクな姿勢で寝かせておけば、じき に気付くでしょう」

「…そうですか」

アキラは詰めていた息を吐く。肩の力が、少し抜けた。

「…あの、それで、彼どうしてこんなことになったんです?何処か体調でも…」

「いえ、そうじゃないんです」

男は首を振りながら、ヒカルが横になっている ベッドの脇に、椅子を二つ引き寄せた。片方をアキラに勧め、片方には自分が座ると、 言葉を続ける。

「精神的なもの…だと思いますよ。多分、凄く驚いてしまって、そのせいで…」

「驚いた?」

アキラは眉根を寄せた。気絶するほど驚いただって?そんな事態、 そうそうあるとは思えない。特に男には。あったとしても、一体何が原因で? まさか、この男に関わりがあることなのだろうか。

アキラは目の前にいるこの男を、まじまじと観察した。

身長は自分より高く、それなりに体格も良い。服装は黒いスラックスに、ベージュのジャケット。 その下に細かい灰色のストライプが入った白いシャツを合わせている。

いや、それより何より、印象深いのは、この男の顔かたちだった。

まるで女と 見紛うばかりに美しい。
女性でも、これ程の美貌の持ち主にはめったにお目にかかれないかもしれ ない。派手ではないが、色白で、人形のように整っていて、いつまでも見ていたいと思わせる 力のある美しさである。

黒く真直ぐで艶のある髪は、鎖骨につくくらいの長さで、後ろでひとつに縛っている。
男にしては、見ているほうが鬱陶しいと思ってしまいそうな長髪だが、この男には 良く似合っていた。

やがて、アキラは男に問いかけた。

「あの、失礼ですが…進藤とお知り合いですか?」

詰問のような口調になってしまっている事はアキラも自覚していたが、男はあまり 気にしていない様子で答える。

「ええ、まあ…。昔の知り合い、とでもいいますか。随分、彼とは会っていませんでした けれど…」

柔らかいながらも、何処か誤魔化しを含んでいそうな言い方だとアキラは思ったが、それ 以上は追求出来なかった。

眠っているヒカルが、ううん、と微かに声をあげながら、身じろぎしたのである。

二人して咄嗟に椅子から腰を浮かし、ヒカルの顔を覗き込む。
一度、溜息をつくように大きく息を漏らし、瞼が2,3回動いたと思うと、ヒカルは その大きな目を徐々に開けていった。

「ヒカルっ…」

男が安堵のこもった声で、ヒカルの名前を呼んだ。







まだ意識がはっきりしない中、霞がかったようなヒカルの視界に、自分を覗き込む人物 の姿が写った。

ぼんやりと眺めていると、その人物に名前を呼ばれた。
白い狩衣を纏い、烏帽子を被った懐かしい人が、懐かしい声で、

「ヒカル、大丈夫ですか?」

と。

一気に意識が覚醒する。

「………佐っ………!!」

それこそ掛け布団を蹴っ飛ばさん勢いで、ヒカルは がばっと飛び起きた。

二人は面食らっている。

「………あ」

ヒカルはハタと我に返った。

目の前にいるのは、佐為ではなく、さっきぶつかった男だった。

顔も声も髪型も、佐為と非常に良く似てはいるが、幽霊ではない生身の身体に、 狩衣ではなく洋服を
着た、全く知らない男。

………いや、でも……。

「進藤、大丈夫?」

その声で、ヒカルは初めてアキラの存在に気が付いた。

「塔矢…!お前、何で……っていうか、此処は…?」

ヒカルは視線をきょろきょろと動かす。

「私の部屋ですよ。あなた、いきなり倒れたんですもん。とりあえず、落ち着いて寝かせ られる場所へと思って、此処に運び込んだんです」

「僕はそこに偶然通りかかったんだ。この方が君を介抱して下さるっていうから、 着いて来ちゃったんだよ。お知り合い……なんだって?」

ヒカルはアキラの言葉に固まった。しかし、

「あ、あぁ……うん」

と答えた。俯きながら。

「それで進藤、君、大丈夫なの?」

「あ、あぁ…平気、うん、何でもねェんだ。心配かけてごめんな」

無理に笑顔を作ってそう言うと、ヒカルは、あっ、と声を上げた。

「そうだ塔矢、俺、お前を探してたんだよ」

「探してた?」

ヒカルは、 そうそう、と頷くと、大急ぎでまくしたてる。

「社がさ、1泊か2泊、お前んち に泊めてもらえないかって。で、出来れば俺も泊まらせてもらって、また3人で合宿 みたいにして打ち合わないかって話になってさ、お前んちの都合がどうか、 聞こうと思って…。あ、だからさ、お前すぐ会場戻ってさ、社に返事してやってくんない?きっと、待ってると思う んだよ」

「それなら、すぐ下に降りるけど……進藤、君は?」

「俺?俺は……」

ヒカルは一瞬口篭ると、隣にいる男をちらっと見ながら、

「ちょっと……。先行っててくんねェ?」

男が驚いたように目を見開いた。アキラは男とヒカルを交互に見、少し黙ってから、

「…分かった」

と、立ち上がった。

「君も、なるべく早くね」

「ああ」

アキラはヒカルが頷くのを 確認すると、男に向かって、

「それじゃ…お邪魔しました」

と、会釈し、ドアに向かって歩いて行った。

ばたん、とドアが閉まる音。

ヒカルと、佐為に瓜二つの男は、少しの間、互いに 黙ったまま、その沈黙に身を委ねた。



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