はやすぎず、そして充分歌うが如く







6.


「塔矢!」

ひとり会場に戻ったアキラは、入り口付近で 後ろから呼び止められた。社だ。

「お前何処行っててん?進藤が探しに行くいうて出てったんはええけど、帰って けえへんから心配しとったんや。……で、進藤は?お前、会うたんか?」

「ああ…うん。会ったよ」

曖昧な笑みを浮かべながら相槌を打つアキラ。
で、その進藤は何処にいるんだ、といいたげな社の視線に気付き、急いで付け加える。

「彼、さっき知り合いに会って、ちょっと話し込んでるみたいなんだ。だから僕だけ 先に会場に戻ってくれって。…あぁそれから、君がうちに泊まりたいって話、聞いたよ」

アキラは、ヒカルが倒れた話は伏せた。何となく、あの男がヒカルを気遣う様子や、 ヒカルの意味ありげな態度を、話の中に蒸し返すのが嫌だった。

「そうか…ならええけど。でもすぐ戻ってくるんかいな。仮にもまだ仕事中やで? 俺ら」

会場の中へ足を進めながら、社は苦笑した。

「すぐ戻ってくると思うよ」

アキラは若干、語調を強めてそう言った。 まるで、自分を納得させるように。

「…戻ってくるよ」












以前は触れなかった佐為の手が、優しく頭を撫でてくれている。

その温かみが伝わ ってくるのが余計に涙を誘うのか、ヒカルは佐為の腕の中でわんわん泣き続け、
それで も嗚咽を噛み殺すようにしてようやく 泣き止んだが、今度は疑問が次々と浮上してくる。

佐為の肩から顔をあげ、鼻をぐずぐずさせながら、

「で、でででも、お、お、おま、お前、ど、どどどうし…て……」

まだ喉がひくついて、言語障害に陥ったかのように言葉が上手く出ない。
しかし、佐為はヒカルの言いたいことをすぐに汲み取って、

「ええ、分かりますよ。聞きたい事は有り過ぎるほど有るでしょうからね。 私もヒカルに話したいこと、沢山ありますし…」

安心させるように、ヒカルの髪と頬を撫でてやる。ヒカルの顔に安堵の色が浮かび、 言葉と息遣いが落ち着いた。

「ほ、ほんとに……佐為なんだな?戻ってきたんだな…?」

「ええ。 ……まあ、名前は別のを名乗っていますけれど、でも、間違いなく私です。 藤原佐為ですよ」

「お前、もう……何処にも行かない?」

佐為はにっこりして、

「何処にも行きませんよ、もう何処にも。ごめんね、ヒカル。急にいなくなって寂しい 思いをさせて。今日もまた急に現れて驚かせてしまって……ごめんね、本当にごめんね…」

その言葉に、 またヒカルの目にじわーっと涙が溢れる。佐為の胸に顔を押し付け、ううぅーと 声を押し殺しながらまた泣いた。

佐為は、出来ることなら気の済むまで自分の腕の中で泣かせてやりたいと思ったけれども、

「…ところでヒカル、まだ仕事中なんでしょ?いいんですか?戻らなくて」

「…あっ!」

ヒカルが声を上げ、佐為の胸から離れる。

「そうだ、もういい加減行かねェと!指導碁頼まれてたんだった」

ヒカルは手の甲で乱暴に目を擦り、鼻を啜ると、ちょっと考えてから言った。

「えっと……佐為?」

「はい?」

現代的ないでたちの佐為に向かって、以前の調子で、佐為、と声をかけることが 少しこそばゆい。

「あのさ、後でさ…またこの部屋に来てもいい?」

多分そう言うだろうと思っていたので、佐為はにっこりして頷いた。

「いいですよ。何なら、泊まって行ってはどうですか?明日はこの部屋から出勤 すればいいですし」

ヒカルの顔がぱっと明るくなる。

「いいの?じゃあそうさせて貰おっかな」

ヒカルは素早くソファから飛び降りると、さっき佐為が脱がせたジャケットを素早く 着た。

「なるべく早く来るからな。でもそうだな…1時までに俺が来なかったら、 寝ちゃっていいよ」

客に離して貰えなかったら、すぐには来れないかも知れない から、とヒカルは付け加えながら、髪を手櫛で整える。

「私は何時でも構わないんですけれどね、明日は早起きする必要はありませんから… でもヒカルに夜更かしさせるわけにはいきませんね。分かりました。もし来れない ようだったら、明日の帰り際にでも寄ってください。それまで私、部屋にいますから」

「分かった。……あ、お前、このゼミナールに参加してるわけじゃねェの?」

佐為は笑って、違いますよ、と言った。

「そりゃそうだよな、お前には必要 ないよな」

とヒカルは笑った。

「じゃ…後でな」

「はい、待ってますよ」

ヒカルは、玄関口まで見送りに出てきてくれた佐為を背に屈んで、靴を履いた。
そして、ノブに手をかけてドアを開けかけるも、一瞬止まって、口を開いた。

「……佐為」

「はい?」

ヒカルはその姿勢のまま首だけで振り返り、 佐為の目を見て言った。

「お前、もう本当に……」

そこまで言いさして、ふっと目を伏せた。

「…ヒカル?」

佐為が首を傾げる。それに促されてか、ヒカルは 目線を上げ、すがるように言葉を続ける。

「本当に……何処にも行かない?」

佐為は、ヒカルの顔がまた泣きそうになった一瞬を見逃さなかった。胸の辺りが ぐっと締め付けられるように感じるも、すぐにヒカルの髪と頬に自分の手を伝わせ、 優しく言う。

「行きませんよ。何処にも行きませんよ。私はもう、ヒカルを泣かせるようなことは 二度としません」

だから安心して、と佐為はヒカルの肩をぽんぽんと軽く叩く。瞳に安堵の色を 戻したヒカルは、少し笑って頷いた。

「…じゃあ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

佐為の笑顔に見送られ、ヒカルは部屋の外に出ると、ゆっくりドアを閉めた。

ドアの方を向いたまま、ヒカルはしばらく動けずにいた。佐為が戻ってきた、戻ってきて くれた、という
事実が、この部屋を出たら消えてしまうのではないか、そんな気がして。

しかし、やがて思いを振り払うかのように、くるりと向きを変えると、小走り にエレベーターを目指した。










ヒカルの様子がさっきと変わっている、ということに、アキラはすぐに気付いた。

何というのか、たがが外れたというべきか、明るくなったというべきか。 いや、元々明るい奴だけれど。

他の人には分からないかも知れないし、分かったとしても、ちょっとテンション 上がっているくらいにしか見えないかも知れないが、アキラにはそういう単純な ものには見えなかった。

アキラの視線の先で、客相手に指導碁を打つヒカル。その表情、指先の動きひとつ にしても、アキラはヒカルの変化を感じずにいられない。
決して悪い意味の変化 という風には見えない。しかし、だからこそ気がかりに感じる。

僕の知らないところで、進藤に何かあった。

どうしてもそんな思いが沸いて来てしまうのだ。

そう考えると原因は、あの男以外に思い当たらない。突然倒れたヒカルを介抱し、 ヒカルの昔の知り合いだ、と言った、あの綺麗な若い男。ヒカルの方も、何処か 意味ありげに自分を部屋から追い出したではないか。余程あの男と二人きりになりたか ったのだろうか。

ヒカルは、さっきこの会場に戻ってくるや否や、指導碁の約束をしていた客に引っ張られていっ てしまい、更にその周りをファンが取り囲んでしまったので、 アキラと話は全く出来なかった。さっきの出来事は、
今も釈然としないまま アキラの中で燻っている。

アキラは苦しげに溜息をついた。

あの男とヒカルの関係は知らない。聞いても教えてくれないような気がする。
しかし、ヒカルに陽性の変化をもたらす力がある事は分かる。普通に考えて、少なくとも お互いに好感情を持っている関係でなければ、そういうことは成立しないと思う。

酷く悔しかった。それが自分で無いことが腹ただしかった。

この感情は何だろう。
自分がヒカルに、並々ならぬ執着を抱いている ことは知っている。それも12歳の頃からのことだ。
しかしそれは彼の打つ碁に対する執着と等しいもの。今までずっとそう思ってきた。そして これからもそうだと思っていたのだけれど……。

其処から自分の感情がはみ出しつつある。アキラはそれを認めざるを得なくなってきて いた。










思っていたよりさっさと抜けることが出来た。

ヒカルは寝巻き代わりのジャージ に着替え、洗面用具を一式詰めたバッグと明日の着替えを抱えて、3階のシングルの客室を目指した。

エレベーターを使うと、位置的に人目につくように思い、会場から自分の部屋に 戻るのも、其処から3階へ向かうのも、敢えて階段を使った。
また、ヒカルはアキラと同室なので、アキラが部屋に戻る前に佐為のところへ行って しまわないと、何処へ行くのかとか、さっきのあの人は誰なのかとか、色々聞かれたときに返答に 困ると思い、アキラがまだ会場で客に捕まっているのを確認してから急いで部屋に戻る など、何かと神経を使った。

しかしその甲斐あってか、ヒカルは殆ど誰とも会うことなく、佐為の部屋に辿り着くことが 出来た。

さっきこの部屋を出る時に確認した、ルームナンバーと名前を見る。

『青木修馬』

これが今の佐為の名前らしい。さっきも、今は別の名前を名乗っている、と言っていた。 理由は分からないが。

ヒカルが呼び鈴を押してすぐ、 ばたばたという足音を前触れにドアが開き、佐為が顔を出した。
よう、と右手を上げたヒカルに、にっこり笑いかける。

「お疲れさま。どうぞ、入って」

「おう。お邪魔しまーす」

ヒカルも佐為に向かって機嫌よく笑いかけ部屋に入 るも、その実、内心ほっとしていた。

さっきの出来事は幻などではなかった。佐為は本当に戻ってきてくれた、ちゃんと自分の 目の前にいるのだ、と、これで確信できたように思えて。

佐為はさっきとは服装が異なり、部屋着のようなくつろいだ格好をしていた。
カップを二個、テーブルの上に置くと、部屋に備え付けのメーカーで 入れたと思しきコーヒーを注ぐ。

「あ、荷物は好きなところに置いちゃっていいですよ」

そう言いながら、ソファの上にあったビニール袋から、おかきだのクッキーだのを 出して、テーブルに上に並べる。

「お前、そんなもんまで用意しててくれたの?」

ヒカルが吹き出した。

「まあ、口寂しくなるんじゃないかと思いましてね。あ、ヒカル、コーヒー飲めます? 駄目ならジュースもありますけど」

「おいおい、俺もう18だぜ?飲めるよ、それくらい!」

膨れながら、ヒカルはソファにどすんと腰を下ろした。佐為はくすくす 笑いながら、その隣に座る。

「18歳ですか……。そうですか、ヒカルはもうそんなに大きくなったんですねえ」

しみじみと呟く佐為が可笑しく、ヒカルは笑って言う。

「何だよ、孫の成長に感心するじいちゃんみたいじゃんか」

「孫じゃないにしても、成長には感動してますよ?私の中ではヒカルの 記憶は、14歳の時点で止まってるんですから。碁に関しても、何にしても」

佐為はヒカルの後頭部を軽く手でぽんぽん、と押さえ、随分と背も伸びましたねえ、と 嬉しそうに目を細めた。

ヒカルは、その佐為の表情にうっとりと見入りそうになってしまったが、すぐに 引き戻された。
そうだ、どうしても聞きたいことがあるんだった。

「なあ、佐為……」

「はい?」

ヒカルはコーヒーの中にスティックシュガーを 一本分流し込み、乱暴にかき混ぜると、カップを持って膝を抱えた姿勢になった。

「お前さ、何でこの世に戻ってこれたの?いつからいるの?名前が違う のは何で?あと…」

矢継ぎ早に質問を繰り出すヒカルを、佐為は軽く制した。

「まあ、 落ち着いて」

そう言うと、佐為はコーヒーに口をつけ、遠くを見るような目つきで 斜め上を見上げる。

「取りあえず聞いて下さい。順を追って説明しますから」





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