はやすぎず、そして充分歌うが如く







あなたに触れる事の出来る喜び

この身がある幸せ






9.


「……んーー……」

覚醒していくのと同時、今何時だろうか、と思いながら ヒカルは目を擦った。
窓から白い光が差し込んでいるのが視界の端にチラリと入っ た。夜は明けているらしい。

ふと、自分の隣に人の気配を感じ、ヒカルはまだ意識をぼんやりとさせたまま、首だ け回して自分の右側を見た。すると

「……ッ?!」

仰天して跳ね起き、その勢いで上半身を仰け反らせた次の瞬間、

「……どわっ!」

後ろ向きにベッドから落ちた。

「いて…」

頭を打たなかったのが目下の幸いだろうか。ヒカルは背中を摩り ながらよろよろと身を起こした。
気付かなかったのだが、自分はただでさえ狭いシングルベッドの、左半分だけを 使って寝ていたらしい。これでは落ちるのも無理はなかった。

で、右半分には…

「……」

ヒカルはまた目を擦りながら立ち上がると、落っこちる前に、自分がどアップで見た ものを確認すべく、
身を乗り出した。

自分のすぐ右隣ですやすや寝ていた人、もとい佐為は、ヒカルが跳ね起きた時にせよ、 落っこちた今にせよ、結構ベッドを振動させてしまったと思うのだが、まだ平和な顔で 寝ていた。

佐為が自分にくっつきそうなくらいの距離で添い寝していたことにも驚いたが、それ以上に、 ヒカルは、佐為がちゃんと此処にいること自体に、改めて衝撃を受けていた。

夢ではなかった。昨日の突然の再会は、夢ではなかった。これがもし 夢オチだったら今頃号泣だと思う。
しかし佐為は本当に戻って きてくれたのだ。しかも生身の人間として。

嬉しさが込み上げてくる。 自然に顔が綻ぶのが分かった。ヒカルは佐為の隣に再びごろんと横になると、天井を仰 いで暫らく声を忍ばせて笑った。

やがて、隣の佐為が身じろぎした。

それに気付くと、ヒカルは姿勢を変えてうつ伏せになり、目覚めつつある佐為の顔を 面白そうにじーっと見た。

うー、とか、むー、とかとか呻きながら、佐為は 額から頬にかかっている前髪を手で払い、やがて目を開けた。そして覗き込んでいた ヒカルと目が合う。

「……お早うございます」

佐為は掠れ気味の声で呟くように言い、笑った。

「おはよ」

ヒカルも笑った。

「あのさ、ひとつ聞いていい?」

「はい?」

佐為がまた、うーん、と呻きながら上半身を起こした。

「俺、何でお前と一緒に寝てんの?」

それを聞いて、佐為は吹き出した。

「全然自覚無いんですねえ?ヒカルが離してくれなかったんじゃないですか、 夕べ」

「……え?」

当惑気味のヒカルに対し、佐為はくすくす 笑う。

「ヒカル、夕べソファでコテンと寝ちゃったでしょ?起こすのも 何だと思って、そのままこのベッドに運んだんですよ私。そしたらヒカル、私の 服の袖をぎゅーっと握ったまま離してくれないんですもん。
ベッドはヒカルに譲 って、私はソファで寝ようと思ってたんですけれどね、 でも振り払うのもどうかと思って、添い寝してあげることにしたんですよ」

ヒカルは自分の顔が紅潮するのを感じた。

「…マジですか。全然覚えてねェ…無意識にそんなことしてたのかよ、俺」

無意識のうちでも佐為を側から離したくなかったのか、と思うとまた改めて顔に 血が上がってくるような気がした。まるで母親が添い寝してやらないと泣く赤ちゃん みたいじゃないか。

「ごめんな、狭かっただろ。俺、寝相悪くなかったかな」

慌てて冷静な 話にもっていくヒカル。

「大丈夫だったと思いますよ、少なくとも、蹴っ飛ばさ れたり肘鉄食らったりはしてないんじゃないですかね」

体の何処も痛くないですか ら、と言いながら佐為はまたくすくす笑った。

「さて…今何時でしょうね?ヒカル、出勤は何時に?」

そう言われ、 ヒカルはハタと気が付き、慌てて時計を探して視線をめぐらせた。
ヒカルが時計を探すよりはやく、佐為がベッドサイドに置いた、自分の腕時計を手に 取る。

「6時50分、ですよ。良かった。まだ大丈夫でしょう?」

ヒカルは胸を撫で下ろした。とりあえず、遅刻の心配は無い。

「寝なおすわけにもいかねー時間だよな。いいや、もう起きよっと」

そう言うが早いか、ぴょんとベッドから降りたヒカルの後姿を、佐為は名残惜しげに 見ていたが、やがて自分もベッドを抜けた。

「なあ佐為ー、シャワー借りてもいい?そういや昨日、風呂入ってなかったんだった」

そう言いながらヒカルは、夕べ持ってきた、洗面用具一式をつめたバッグの中を 覗き込んでかき回す。

「いいですよー」

佐為はそう答えながらカーテンを開けた。

「あ、でも……お前が部屋主なん だし、先に入っていいよ」

ヒカルはそう言って、バッグを置きなおした。

「ああ、私は昨日、ヒカルが来る前に入りましたから、今朝はいいです」

「あ、そうなの?じゃあ…借りるな」

「はいはい、ごゆっくり」







一通り身の回りのことを済ませ、シャツとズボンも身に付けて部屋に戻ると、佐為も 既に身なりを整えて、コーヒーメーカーをいじっていた。

佐為は灰色のインナーの上に青いシャツを羽織り、ボトムスは恐らく昨日と同じ黒いス ラックスという出で立ち。髪の毛は首の後ろできっちり一つに縛っている。

格好いいな、とヒカルは素直に思ってしまった。

佐為ほどの超絶美形だったら、似合わない格好などこの世に無さそうな気もするけれど、 自分が知っているのは狩衣に烏帽子を被った佐為の姿だけだし、現代的な出で立ちには見慣れぬ新鮮 さも加わってか、妙に眩しく写る。

生乾きの前髪の間から、ヒカルはしばし目を細めて、佐為をぼんやりと見詰めていた。
やがて佐為がカップを両手に持ってヒカルを振り返った。

「ねえヒカル、此処で朝御飯食べて行きません?私、ルームサービスで頼む つもりでいるんで、良かったら一緒に」

ハタと我に返るヒカル。 佐為の提案に二つ返事で乗ろうとするも、ふと、あることが頭を掠めた。

「あー…そうしたいとこだけど……やめとくわ」

「どうして?」

「えっと、俺さぁ」

ヒカルは髪の毛をかき回しながら言う。

「塔矢と同室なんだけどね、夕べ、あいつに何も言わずに此処に泊まりに来ちゃった んだよ。何処行くの、とか、お前のこと聞かれたりしたら困るなと思って。…だからあいつ、俺が帰って こねェのを心配してるかもしれないんだ。朝出る前くらい顔見せに行かないと駄目かなと 思って」

確かに、昨日、この部屋からアキラを実質的に”追い出し”てからこ っち、指導碁などが入ったこともあって、ヒカルとアキラは口を利くチャンスがなかった。

ヒカルが突然倒れたことで随分心配させたのに、それに対する説明も弁明なしに今度は 無断外泊をし、何ごともなかったかのように外泊した部屋から出勤、というのはかなりばつ が悪い。

佐為もその点は納得したらしい。

「そうですね……じゃあ、もう少し経ったら部屋に戻りなさいな。私は、塔矢に自分の ことは、ヒカルの昔の知り合いだとしか言ってません。もし何か聞かれても、適当 に誤魔化しておおきなさい」

「分かった」

とりあえず、この佐為が”sai”だとばれさえしなければ良い のだ。ヒカルは、部屋に戻ったら開口一番、塔矢に何て言おうかな、と思いながら 佐為が出してくれたコーヒーをすすった。

「佐為、今日チェックアウトすんの?」

「はい」

「朝飯食ったら、すぐ?」

「はい、一応午前中には 此処を出ようかと思って」

「俺、今日これから公開対局出るんだよ。見に来なよ……って、あーでもお前、 塔矢と顔合わせでもしちゃったら、また面倒なんだっけ…」

「そうですね、見に行きたいのはやまやまですけれど。まあ、後で棋譜を見せてくれれば いいですから
……ああ、そうだ」

佐為はライティングデスクに歩み寄ると、その上に置いてある、備え付けのホテルのメ モ帳を一枚破り、そこに何やら書き始めた。

「はい、これ」

そう言って、書いたものをヒカルに差し出す。

「私の連絡先です。これから必要になるでしょうから」

見ると、名前(現在の本名の方だ)と住所、自宅の電話番号、携帯電話の番号、 メールアドレスに至るまで書かれている。ヒカルは、はぁ…と、感嘆とも何ともつかぬ 溜息と共にそれを眺めた。書かれた名前を目で追いながら、ふと思ったことを口にする。

「……そういえば俺、これからもお前のこと、佐為って呼んでいいのかな」

「勿論ですよ」

佐為は笑った。

「ヒカルに呼ばれるには、”佐為”が一番自然です。…まあ、”sai”のことがばれる とマズイ人たちの前でだけ、気をつけてくれればいいですよ」

ヒカルは、分かった、と頷いた。そして自分も、携帯番号とメールアドレスを書いて 佐為に渡そうと思い、デスクに向かって屈んだ。その背中に向かって佐為が楽しそうに 言う。

「私、そんなに交友関係が広いほうじゃないし、独り身ですし、仕事の時以外は 割と暇なんです。だからこれから、ヒカルと会ったり、対局したりする時間は充分に あると思いますよ」

それを聞いてヒカルの表情がぱっと華やぐ。

「前みたいに、いつでも何処でも一緒、というわけにはいきませんけれど、私が幽霊 だった時にはヒカルと出来なかったこと、これからは何でも出来ます。前は、何処に 行くにもヒカルに連れていって貰うばかりでしたけれど、私がヒカルを外に連れ出す ことも出来ますしね」

そう言って、佐為はにっこりした。

ヒカルの胸の奥に、何か込み上げてくるものがあった。

また、佐為と一緒に思い出が 作っていける、という嬉しさ。新たに繋がった自分たちの絆が、この先どのような ものとなっていくのかは、まだ分からないが、今はただ、こうして目の前で佐為が笑って くれているだけでも、幸せで一杯だった。

ヒカルは思わず、佐為の首に腕を回し、抱きついた。

「佐為、大好きだよ」

佐為は驚いて目を見張ったが、すぐヒカルの背中に 腕を回して抱き締めかえす。

「私も大好きですよ、ヒカル」

ヒカルは、佐為の肩に頬を擦り付けるようにしながら、えへへ、と笑いを 漏らす。

「これからまた、一杯打とうな」

「ええ」

「色んなとこ行こうな」

「ええ」

ヒカルを抱き締める腕に力を込め、 佐為は何度も頷いた。









ヒカルが、行ってきますを言って部屋から出て行っ た後、佐為はシングルベッドに腰かけ、暫らく物思いにふけった。さっき、ヒカルが 自分に抱きついてきた時、一瞬自惚れてしまったけれども、やはり自分の考えは甘かったら しい。

ヒカルが自分を好きだと言ってくれたのは嬉しかった。

しかしそのヒカルの言う”好き”は、やはり”親愛”と呼ぶのが相応しく、それ以上の ものではないらしい。愛情であることには変わりないけれども、 佐為がヒカルに対して抱いている愛情とは種類が違う。

ヒカルは佐為を求め、共にいることを望んでいる。それは佐為も同じだ。

しかしそれだけでは満足出来ない、激しい感情が佐為の中にはあった。
ヒカルはもはや佐為にとって、ただの弟子でも、弟分でも、友達でもなかった。

「……これ以上、あの子に何を求めようっていうんでしょうね、私」

佐為はふっと溜息を漏らしながら、天井を仰いだ。







さて、一方ヒカルは、アキラとの二人部屋に戻ると、 キーをポケットから出し、なるべく音をたてないようにドアを開けた。

中へ入ると、 玄関付近には灯りがついておらず、部屋に通じる引き戸も閉められているのが分かった。 やっぱり、まだアキラは寝ているかもしれない、とは思ったが、

「……おはよー……」

一応、控えめな声量で声をかけつつ、恐る恐る引き戸に 手を伸ばそうとした。すると、

「進藤?」

引き戸の向こうからアキラの声がした。それを聞いてすぐに戸を開けるヒカル。

既にカーテンを開けてあり、日が差し込む室内に、アキラが着替えを済ませて 立っていた。いや、正確にはまだ済んではおらず、結びかけのネクタイを首元で いじっている最中だったらしいのだが。

「あー……おはよ。起きてたんだ?」

「うん」

アキラは首元に 手をやった格好のまま短く答えた。

「あ、あのさ」

ヒカルは 急いでまくしたてた。

「えっと、夕べは、何も言わねェで夜帰ってこなかったりして、 ごめんな!ほら、昨日さ、俺を介抱してくれた男の人、いるだろ?あいつ、俺の 昔の知り合いでさ、偶然このホテルに仕事で泊まってたんだって。そいで、もう久々に 会ったもんだから色々と話したいこともあってさ、あいつの部屋で話し込んで、そのまま 泊まっちゃったんだ……よね」

最後の「よね」で、ヒカルはアキラの顔色を見た。が、以外にも、特に怒っているふうにも、 機嫌が悪そうにも見えない。

正直、”仕事で来ているのだからプライベートは分けろ” とか、”いつまでも帰ってこないから心配してたんだぞ”とか、一喝されるくらいは 覚悟していたのだが。

「……そう。それならいいんだ」

アキラは穏やかにそう言った。

「朝起きても君がいないのには、さすがに 驚いたけどね。まあでも…そういうことなら、うん、いいんだ」

アキラはネクタイを結び終えると、すぐに話題を転じた。

「朝御飯、まだだろ?下の食堂に行こうか」

「ああ、うん」

ヒカルは、とりあえずお咎めなし、ということに胸を撫で下ろしながら、笑顔で頷いた。

それゆえ、アキラの表情に、いつもは見られない落ち着きの無さが見え隠れしている ことには気がつかなかった。





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