それは一種の狂気にも似て









ハッと我に返ったその瞬間は、自分が何処にいるのか分からなかった。

何処で誰と過ごし、自分がどのような立場にいるのかも分からず、混乱した。だが、

「ああ、起きたかぁ」

耳慣れた声に、自分の中で何かがすとんと収まるような 気がした。

声の主は、相変わらず小学生並みにつるつるした顔で、ひょいと自分を覗き込んだ。

「ヒカル……」

名前を呼んだら、相手はにっこり笑った。

「もうちょっと寝てても良かったのに。疲れてたんだろ?」

そう言いながら台所の方へと回っていくヒカルを目で追ううち、見慣れた自分の部屋 の内装も一緒に目に入ってくる。此処は私の部屋、今日は金曜日だった、と 再認識する。夜からヒカルが来ることになっていたんだった。

佐為は苦笑しながら言う。

「もうすっきりしましたよ。ごめんね、――いつ来たんですか?」

横になっていたソファから身体を起こした。時計を見れば、そろそろ20時になろうと している。

「30分くらい前かな。鍵開けっ放しだったぞ。駄目じゃん。最近は物騒なんだから」

「……そうですね。気をつけます」

しゅんとしたような表情でそう言うと、ヒカルはくすっと笑いながら、何か抱えて 台所から戻ってきた。

「あれ、ヒカル、……どうしたんですか?それ」

ヒカルの両腕に抱えられた大振りの花瓶に、徳利型をした鮮やかなオレンジ色の実と、 長楕円形で光沢のある葉をつけた枝が活けられている。色とりどりの花などにはお目にかかりに くいこの季節に、そのオレンジ色には見るものを否応無しに惹き付ける 魔力があるように思えた。

「山梔子じゃありませんか。何処で取ってきたんですか?」

「さんしし、っていうの? 塔矢のおばさんはくちなしの実って言ってたけど」

「ああ、それも正解ですよ。くちなしの木に出来る実ですから。でも、その 実のことは山梔子とも呼ぶんです。……塔矢のお母さんに貰ったんですか?」

「うん。塔矢んちの庭さ、この木が何本も生えてんの。で、今日行ったら 居間にその木の枝がさ、こういうふうに花瓶に活けて飾ってあったのね。 凄い綺麗なオレンジ色なんで、俺が盛んに褒めたらおばさんがくれたんだよ。庭から わざわざ枝折って来てさ。持って帰って飾るといいって」

そう説明しながら、ヒカルは佐為が座っているソファの傍にあるテーブルの上に、 丁寧に花瓶を置いた。飾り気のないこの部屋に突如鮮やかな色彩が加えられると、 先程とは別の空間になったような印象さえあった。

「塔矢んちじゃ、これを使って正月の栗きんとんの色付けをするんだってよ。 天然の着色料にもなるのなーこれ。夏に咲く花も香りがいいし綺麗だから、是非見に いらっしゃいって言われたよ」

佐為はくすくす笑った。

「ヒカルも随分とまあ、風雅を解するようになって きましたねえ」

ヒカルも苦笑いする。

「塔矢んちに出入りしてるとさ、自然と風雅な教養がつくの。楽しいじゃん、そうい うこと覚えていくのもさ」

「ええ、そうでしょうね」

佐為は微笑みながら、座った姿勢のまま、山梔子 の実を覗き込むように身体を倒した。

「この実ね、熟しても口を開けることがないんですよ。だから口無しって呼ばれる ようになったらしいです」

「へえ、そうなの?」

「ええ。江戸時代以降には、碁盤や将棋盤の脚にこれを象ったものが使われるように なったんですって」

「えっ、碁盤に?」

「そうですよ。 打手は無言、周りからの口出し無用とする戒めだそうです。知りませんでした?」

「うっわー、プロのくせにそういうこと全っ然知らなかった!」

ヒカルはぺしっと手で額を叩いた。佐為はそれを見てまたくすくす笑う。

「ついでですからヒカル、もうひとつ覚えておおきなさいよ」

「何?」

佐為の足元にしゃがむように座りながら、ヒカルは相手の顔を見上げた。

「山梔子の花言葉ですよ」

そう言うと、佐為は長い両腕でヒカル を背後から抱きしめるようにする。

「『私は幸せ』だそうです」

その言葉と同じ感情を声に滲ませ、佐為はヒカルの肩に自分の顔を乗せた。







狂気にも似た思い。ええ、恐らくそうなのでしょうね。

この子への思いはそれほど強烈なもの。当の私が一番良く分かっています。

……分かっているだけ、まだ救いがあるとは思いませんか。そう思いません?

大丈夫ですよ。これが私の幸せなのですから。

我が身を焦がしながら、気狂いじみた愛情で相手を思う。

いつまでもいつまでも。時代と世代を超越しても、この思いだけは連れて行く。

これが私の幸せなのですから。



<終>










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