はやすぎず、そして 充分歌うが如く




1.



先程から、自分の周囲だけ時間が止まっているように思える。

ヒカルは、もうどのくらい続いているのか判らない沈黙の中で、じっと目の前にある 黒と白の盤面を見詰めていた。ぼんやりしているわけでもなく、考え込んでいるわけでも ない、ただ頭の中はやたらとクリアな状態のまま、ずっとその姿勢を保っていた。

それからまたどのくらいの時間が過ぎた頃だったか。

「負けました」

ついに、目の前の男が頭を下げた。投了の宣言と同時、急にまた時間が流れ始める のを感じる。
終わった、とか、勝った、という実感が沸くよりも先に、詰めていた息が一気に 吐き出される。
ヒカルは、姿勢を正しながら、指で自分の眉間を2,3度押した。 そして、手にしていた扇子をパチンとたたむと、

「有難うございました」

と相手に向かって頭を下げた。

入り口の方から、出版部の人間達がばたばたと入ってくる音が聞こえてくる。対戦相手 だった棋士は、一度大きく溜息をつくと、少しまなじりを下げ、ヒカルに告げた。

「本因坊リーグ入り、おめでとう、進藤君」





「進藤!」

お決まりのような取材からようやく解放され、エレベーターで1階まで降りると、待ち構えて いたのは、院生時代からの仲間である和谷義高棋士と伊角慎一郎棋士の二人。

「よお、来てたの?」

厳しい戦いの最中にあった時と打って変わって、親しい仲間を見付けたヒカルの顔は、 たちまち18歳の少年のそれに戻る。

「来てたの、じゃねーよ。お前のことが心配でわざわざ此処で待っててやったんじゃ ねえか」

「まあ、あんまり心配はしてなかったけどな。今のお前なら」

「やめてよー伊角さん、今日の対局かなりしんどかったんだぜ。正直、負けるかと思った」

「でも勝てたわけじゃん、事後考察はあとあと!」

「ああ。取り敢えず、リーグ入りおめでとう、進藤」

伊角の言葉を機にヒカルは、さっきの取材では見せなかった手放しの笑顔を披露した。

「サンキュ。まあこれからが大変なんだけどな」

「だろうな。でも取れよ、本因坊!」

「和谷ぁ、簡単に言うなよぉ」

ヒカルの他に本因坊リーグ入りを果たしているのは、そうそうたる顔ぶれである。
今や棋院公認のヒカルのライバル、塔矢アキラ、若手筆頭株の倉田や緒方二冠もそうだ。 これからはその強敵たちと、いまだ本因坊のタイトルを防衛している桑原への、挑戦者の座 をかけて文字通り激戦を繰り広げなくてはならない。まだまだ道は険しいのだ。

それを思ってヒカルが視線を中に泳がせていると、

「なあ、俺達これから飯食いにいくんだけど、どうする?お前も来る?」

という伊角の声に引き戻された。

「行く行く!じゃあリーグ入り祝いってことで、御馳走になりますか」

「誰も奢るなんていってねーよ!」

ネクタイを緩めるヒカルに、和谷がどつく。
この三人集まった時の風景は、院生時代から何も変わっていなかった。





行き先は、近場のファミレスという御馴染みの場所。
緊張を強いられる対局から解放された直後であることも手伝ってか、ヒカルは 普段以上によく食べ、よく喋った。喋るとはいっても、碁打ち3人の集まりである以上、 盛り上がるのは碁関連の話ばかりだったのだが。

和谷がフォークを置いて、おもむろに口を開く。

「そういやあさ、進藤も伊角さんも、ネット碁ってやらねえんだっけ?」

「ネット碁?」

「うん、やらねえよ。パソコンは持ってるけど」

一応、ヒカルも少し前に、若者の嗜みのような感覚でパソコンを購入してはいたものの、 ネット碁は全くやろうとしなかったし、観戦を試みたこともない。ネット碁、というと、 ヒカルにはいまだ思い出すことが多過ぎて、辛いのだ。

「やらねえにしても、知らない?ネット碁にたまに現れる、滅茶苦茶強え奴のこと」

「滅茶苦茶強え奴?」

和谷の言葉に、ヒカルが首を傾げる。

「ああ、それこそトッププロとしか思えねーくらい強えの。 俺、昨日そいつと対局して負けたんだ」

和谷が悔しそうにコップをゴンと音をたててテーブルに 置く。そこへ、伊角が口を挟んだ。

「おい、それってもしかして、あれか?一昨年あたりから話題になってたっていう…」

「そうそう!そいつだよ!いまだ正体不明なんだけど、今でも週3、4回くらい の頻度で現れてんの」

「え、何それ、そんなに前からいんの?」

自分を差し置いて盛り上がる二人に、ヒカルは焦れたように食いつく。

「進藤、マジで聞いたことねえの?ホント噂に疎いのな、お前」

「それはいいから!教えろよ、何ていう奴なんだよ?」

笑いながらコップの中身をあおる和谷に変わって、伊角が教えてくれた。

「ハンドルネームは”shu”っていうんだ。s,h,uって書いて、”shu”」

「『しゅう』?」

「そう。しかもJPNって登録してあるから、多分日本人だぜ」

と、和谷。

「日本人…」

誰だろう、とヒカルは真剣に思った。トッププロ、と名の付く 身の回りの棋士達、それこそアキラや緒方が頭に浮かんだが、そういう有名どころが その”shu”とやらの正体だったら、棋風で何となく判らないだろうか。和谷にそう 言ってみると、

「それがさあ…"shu"の棋風って…」

ちら、とヒカルの顔に視線をやって すぐ外し、コップの中身をずず、と音をたてて啜ると、

「何か、あいつに似てるんだわ、あの”sai”に」

ヒカルは持っていたフォークを落としそうになった。
ヒカルの心情を知ってか知らずか、和谷は続ける。

「"shu"が初めて現れたのは一昨年の夏頃なんだけど、まず韓国のプロを負かした、 ってことで話題になったんだよ。その後、頻繁に現れちゃ対局申し込んでくる奴、片っ端 から負かしてやがった。自分から申し込む事は滅多にねえの。その強さも、打ち筋も、プロ なんじゃないかと思うくらい鍛え抜かれてるっつーか、洗練されてるっつーか、 とにかく一時期、”shu”の正体は誰だ、日本のトッププロの中にいるんじゃないか、 ってかなり騒がれてたんだぜ……って、進藤、聞いてんのか?」

「…え、あ、うん。聞いてる、それで?」

ヒカルは慌てて和谷の方に顔を向ける。
何だ、この胸騒ぎは。ヒカルは思いを振り払うように、2、3度瞬きをして、 和谷の話に集中しようとした。

「でも、結局判らなかった。さっきも言ったけど、”shu”の棋風は”sai”に似てて、 定石も古いんだよ。
だから、これはあの伝説の”sai”が、ハンドルネーム変えてまた 現れただけじゃないのか、って説も出てきて、一応は落ち着いたんだけど、いまだはっきり した正体は不明のままなんだ。で、”shu”は今でも週に3、4回のペースで現れてる。 土日とか平日の夜が多いかな。殆ど来ないのは平日の昼間」

ここで和谷が話を一区切りした。

「へえ、じゃあ社会人なのかな。でも前に”sai”が現れてた時は子どもなんじゃないか、 って説もあったけど……って、おい進藤!」

伊角が、ハンバーグステーキに爪楊枝のビンを振っているヒカルに気付いて慌てて 止めた。

「おいおい、何やってんだよもう」

「…あ」

我に返ったヒカルが、慌てて指で爪楊枝を取り除け、皿の隅に集める。その間も、眼が おどおどと落ち着きなく揺れているように、二人には見えた。





まもなく、3人の会合はお開きになったが、帰る道すがら、ヒカルと別れたあとに 和谷と伊角は、何となく先程の話を蒸し返した。

「どう思うよ?伊角さん。進藤のあの様子」

「さあ…」

確かに変だったとは思っていたものの、伊角はそれ以上コメントのしようがなかった。和谷が続ける。

「俺、院生の時、進藤が”sai”なんじゃないかとか、じゃなかったら”sai”の弟子 なんじゃないかとか、色々考えた事もあったんだけど、それは進藤自身に色々と説明も否定も されて、その時は、ああそうか、ってあっさり納得しちまったんだよな。それ以上考えようとも 思わなかったし…」

「でも根拠があって、進藤=”sai”なんじゃないか、って思った わけだろ?」

そのあたりの事情は伊角も知っている。

「まあ、そうなん だけど…」

歯切れの悪いまま、会話がそこで途切れた。二人は何も言わずに、 10メートル程歩き続けた。やがて、

「俺さ、進藤に、いつかお前は”sai”みたいに強くなるかもな、って言ったことあるんだよ。 あいつの打ち筋が”sai”に似てたし、あいつがじわじわ伸び始めた時だったし」

それを聞いて、伊角が柔らかく微笑んだ。

「で、その予言が本当になったわけだ」

「ああ…本因坊リーグ入り、だもんなあ。悔しいけど、いつの間にかあいつに 置いてかれちまってるよ」

「だよなあ。俺もそうだよ」

二人は同時に溜息をつく。少しの沈黙の後、和谷が、どんよりと暗い夜空を仰ぎ見ながら呟いた。

「進藤と”sai”の関係が何であれ、あいつはもう”sai”並みに強くて、今ならもう、 進藤=”sai”だと思われても不思議じゃないんだよな。そう思わねえ?」







ヒカルは今、実家を出て一人暮らしをしている。

和谷がプロになってまもなく一人暮らしを始めたのを見て、ずっと羨ましく思っていたの を、今年、18歳になる少し前にようやく実現させたのである。

今ではもう、手合いの数もそれ以外の仕事も増え、自分ひとりを養うには充分過ぎる 程の収入を得ていたから、日々の生活には何の心配も無い。しかしヒカルは、 自分は碁盤と碁石さえあれば何処でも生きていける人種だと思っていたので、住まいや暮らしに にさしたるこだわりも無く、家賃9万5千円の1Kの物件を適当に選び、今でも割と小奇麗 に住んでいる。

その住まいに帰宅してすぐ、ヒカルは上着を脱ぐより早く、パソコンの電源を入れた。

先程、和谷が言っていた。『”shu”が現れるのは、土日か平日の夜』だと。
ヒカルは時計を見る。まだ9時にもなっていない。加えて、今日は金曜日である。

何を期待してるんだろう、俺は。

自分でもよく分からないまま、胸のざわつきに突き動かされるままになっているように 思う。

その”shu”という打ち手が、”sai”もとい佐為並みに強くて、棋風が 佐為に似ているからといって、だから何だというのだ。 佐為はもういないのだし、”shu”という打ち手は、いまや伝説となった幻のネット 棋士
”sai”の影響を少なからず受けてプロ並みに強くなったアマチュア、という可能性 だってある。

なのに、なんで俺は…。

釈然としない思いを抱えつつも、ヒカルはネットに接続し、和谷が常連だという ネット碁のサイトをひらいた。そしてそのまま”shu”という名前を探す。

いた。

まさに調度、対局中だった。ヒカルは、ディスプレイに映し出されて いるその盤面を、じっと見据えた。

「…確かに似てる」

その打ち筋は、ヒカルが12歳から14歳の2年間のあいだ慣れ親しんできた師、佐為を 髣髴とさせた。
対戦相手に実力が伴わないため、対局というよりも、指導碁に近くな ってしまっているような内容だったが、今はもういない佐為を蘇らせるような意味合い だけなら、充分なものだった。

ヒカルは悲しいとも切ないとも思わず、暫らくの間、ただ懐かしいアルバムでも見ている ような気分で、盤面を見ていた。……のだが。

こいつ、まだ実力の半分も見せちゃいない。

勿論、対戦相手の力不足のせいもあるのだろうが、でも…。

ヒカルはディスプレイから視線を外し、ちょっと考え、首を2、3回回した。そして、 腕を思い切り伸ばしながら少し瞑目する。リーグ入りを賭けた大事な対局を済ませ、 かなり消耗してはいるが、さっき和谷達と気分転換もした。今から一局打てないわけでは ない。

「…俺が引き出してやっか、こいつの力を」

ヒカルは画面に向かって呟くと、椅子に座り直した。そして数年前の記憶を 辿りながら、ログイン画面を呼び出す。

今の対戦相手が投了するのを待って、ヒカルは”shu”に対局を申し込んだ。



自分は”sai”と名乗って。









結果は、ヒカルの一目半負け。

ヒカルは真剣勝負の後の疲れも忘れ、静かな興奮に 包まれながら、じっと ディスプレイの盤面を見つめていた。

強い。和谷の言ったとおり、この”shu”は とてつもなく強い。ただ佐為に似た碁を打つというだけではない、佐為の上をいっている のではないかと思えるほどに。だとしたら本当に只者ではない。

「…誰なんだ?」

”shu”の正体には興味を 持たず、ただ、どれ程の実力を温存しているのかを知りたくて、対局を申し込んだはず だった。しかしその初心を忘れさせる程、強烈な一局を打たれてしまった。

すると、突然、ディスプレイに別窓が開いたと思うと、そこに文字が打ち込まれ てきた。チャットだ。



『本因坊リーグ入り、おめでとう』



その一文を見て、ヒカルはぎょっとした。

何故知っているのだ?いや、そもそも、何故”sai”と名乗った自分が、今日本因坊 リーグ入りを果たした進藤ヒカル七段だとばれているのか。棋風だけで判別できたの だろうか。いや、リーグ入りしたのは自分だけではないのだし、もしかしたら向こうは アキラや倉田、または緒方だと思っているのかもしれない。

ヒカルは迷ったが、チャットに応じることにし、キーを叩いた。

『俺が誰だか分かるの?』

”shu”からの返事はすぐに来た。

『はい。棋風で分かりました』

『俺の棋譜を見たことあるの?』

『ええ、ありますよ。何度も』

ヒカルはその先を続けられないでいた。 何故か、何も聞いてはいけない、これ以上会話は続けられない、そんな気がしてしまって。 すると、”shu”が、

『いつも、あなたの活躍を楽しみに見ていますよ。また此処で 対局して頂けますか』

ヒカルは急いでそれに応じた。

『はい、勿論』

そこでチャットは途切れた。

ヒカルは、更に疑問を深くしながら、チャット画面に残された文字を見詰めて いた。





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