はやすぎず、そして充分歌うが如く







14.




最後まで並べ終わった盤面を前に、佐為はこの上なく渋い顔をした。

「これが本因坊リーグ第3局、ですか?」

ヒカルは正座したまま、何も言わずに項垂れた。はいそうなんです、なんて口に出す 気になれない。
少しの沈黙――ヒカルにはかなり長く感じられたが――の後、佐為は 溜息混じりに言う。

「……何やってるんですか、ヒカル。どういうつもりなんです?」

「………」

ヒカルは何も返さない。言い返す言葉が見付からない。

「そりゃ確かに負けちゃいませんけどね、でも勝ったとも言えませんよ、 これじゃ。対戦相手にも失礼この上ない。ふざけてると思われても仕方のない一局じゃ ありませんか」

全く持ってその通りである。佐為の言っていることは正しい。だからこそ余計 ヒカルは小さくなってしまう。

また沈黙が来る。佐為の綺麗な指が時折、碁盤の端をトントンと叩く音だけが部屋の中に 響いている。その音にさえ、ヒカルは怯えそうになってしまうのだが、やがて佐為は、 ふー、と長い溜息をついて、まだ項垂れたままのヒカルの顔を下から覗き込むように見た。

「ヒカル、何があったんです?何かあったんでしょ?」

さっきよりも柔らかい口調でそう言われる。ヒカルはそれに少し安堵するのと同時に、 この目の前の師に、自分の心の内まで見透かされてしまうのではないかという恐れを 同時に抱いた。

一瞬にして複雑な心境になる。

「精神状態がここまで碁に影響するなんて、ヒカルらしくありませんけど、でも…… 何か気になることでもあるんじゃありません?何だったら、私に話してみたらどう ですか?解決出来る出来ないは別としても、多少は気が軽くなるかもしれませんよ」

「……いや」

ヒカルはやっと口を開けた。

「別に……そんなんじゃない」

まだ頭は垂れたままだ。その様子を見て、 佐為は困惑げに眉根を寄せた。

「ヒカル、私の前で隠し事はなしですよ」

「隠し事なんて別に……」

そう反論しながら、ヒカルはやっと顔を上げた。 それを見て佐為も安堵したのか、少し口先が滑らかになる。

「ついぞ数年前までは私たち、隠し事したくても、なーんにも出来なかった間柄じゃ ありませんか。まあ、あそこまでプライバシー共有しようなんて思いませんけれど ね、でも今更ですよ?ヒカル。悩んでることを私に話してくれないなんて……」

ヒカルの中でじりじりと焼け付くような感情が育ちつつあった。それを押し殺すように、 ヒカルは低い声で呟くように言った。

「だから……本当にそんなんじゃないんだってば」

「ヒカル」

「たまにはっ……こういう時もあるんだよ」

苦しげにそう吐き捨てる。佐為 の目を見ることが出来ない。

「俺だって人間なんだから……調子の悪い時もあるの。分かるだろ?お前だって今は ……生身の人間なんだから、分かるだろ?それくらい」

言い終わらないうちにヒカルは立ち上がる。

「ヒカル……」

「ごめん、もう帰る。もうこんな結果は出さないから。次からは……もっとちゃんと 打つから」

脇に置いてあったバッグと上着を掴むと、逃げるように玄関に向かった。後ろから 佐為が呼び止める声がしたが、無視してそのまま出てきてしまった。







佐為のマンションを出た後も、ヒカルは真直ぐ自分の部屋に戻る気にはなれずにいた。

時刻はもう18時になろうとしている。今日は休日だったのだが、ヒカルは 午前中に指導碁と取材を一件ずつこなし、夕方になってから佐為のマンションに 向かったのだ。本因坊リーグ第3局を並べて見せてくれ、と佐為がせっついた ためである。

何か理由を作って断わればよかった、と今更ながらヒカルは後悔した。
あんな棋譜を見せて佐為が喜ぶはずはないと分かっていたのに。第4局が済む まで伸ばし伸ばしにしておけばよかった、とまで思ってしまう。

第一、今は棋譜並べ云々を抜きにしても、佐為の顔を見るのはしんどかった。
あんな酷い1局を披露する破目になってしまったのは、あの日、佐為の部屋で例の 一件を目にしたからに違いないのだから―――。

さっき自分の言った一言が頭の中に蘇る。

『お前だって今は生身の人間なんだから、分かるだろ?それくらい』

自分で言ったその言葉の重さが、今になってずっしり圧し掛かってくるようだ。

生身の人間。そう、今の佐為は生身の人間だ。 もはや、進藤ヒカルのためだけにこの世に存在する碁打ちの幽霊なんかではない。

だからこそ、自分は彼にとって意味ある存在でなければならないのだ。そうで なければ一緒にいられない。佐為に愛想つかされたら最後、俺はいとも簡単に佐為との絆を 切られてしまわないとも限らないのだ。

それなのに、それなのに俺は、あんな酷い棋譜をあいつに見せてしまった。 俺は佐為の前では強い棋士でなければならないのに。そうでないと俺は……。

またヒカルの中に、じりじり焼け付くような感情が芽生える。

何をこんなに焦っている?何故ここまで危機感を感じているのだ?俺は。
まるで、佐為を縛り付けてでも自分の側に置いときたいみたいじゃないか。自分の 所有物宜しく。あいつにはあいつの自由があるのに、あいつの生活があるのに、 何を勝手に……。

気が付いたら、ヒカルはアキラの碁会所の側まで来ていた。全然違う事を考えて いたというのに、脚が自然と此処へ向いてしまったようだ。

どうしようかな、とヒカルは少し迷って立ち止まった。

アキラが来ているかもしれない。1局相手して貰いたいけれど、会うのは何となく 気が重い。前回のこともあるし、本因坊リーグ第3局の内容についても、既にアキラ の耳には入っているだろう。今顔を合わせるのは気まずいことこの上ない。

でも、気分を一新出来るような強烈な対局を、ヒカルの頭が望んでいる事も確かで……。

「進藤じゃないか」

突然声をかけられて、ハタと我に帰る。

見ると、目の前に緒方が立っていた。

普段仕様の格好で、ポケットに手を突っ込んで。たった今、アキラの碁会所から出てきたのだろうか、とヒカルは思った。

「何やってる、こんなところにぼけっと突っ立って。アキラ君と打ちに来たのか?」

「え、いや……別に」

ヒカルはきちんと挨拶するのも忘れ、ゆるゆると 曖昧に頭を振る。その様子を見て、緒方は鼻を鳴らした。

「……やれやれ。進藤も呆けてるアキラ君も呆けてる。どうしちゃったの かね、気鋭の若手二人は。全く張り合いのない」

アキラ君も呆けてる?ヒカルは眉根を寄せた。それを目ざとく察し、緒方は意地悪く 言う。

「よく分からんが、ま、大方宿命のライバルが大事なリーグ戦で変な碁を打ってる から、それで気を病んでるんじゃないのかね。自分の事のように」

ヒカルはぐっと言葉に詰まった。やっぱりこの人もあのみっともない棋譜を見ているのか。悔しいが、 返す言葉がない。緒方は胸ポケットから煙草を一本出す。

「ま、第4局はああいうことのないようにして貰いたいね」

そうだ。

忘れていた。次の第4局の相手は……。

「……勿論、緒方先生をがっかりさせるようなことだけはしませんよ」

急いで殊勝な態度を作る。咥えた煙草に火をつけながら、緒方はそんなヒカルをチラと 見やり、口元だけで笑った。

「そうか。じゃあ楽しみにしてる。それまでにせいぜいコンディション整えておけよ」

それだけ言うと、煙を吐き出しながらヒカルとすれ違って行った。

ヒカルは、まだその場に突っ立ったまま、遠くなっていく緒方の背中を見送っていた。

あの人が、緒方二冠が、俺の第4局目の対戦相手なのだ。





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