はやすぎず、そして充分歌うが如く







16.




ヒカルは上着も脱がずにつかつかと部屋の中に足を進めた。その間、硬い表情は崩さない ままだ。

「ヒカル、とりあえず上着脱いで、座ったらどうです?」

ヒカルの心中をまだよく飲み込めていないまでも、佐為は優しい声音でそう勧めた。
が、ヒカルは小さくかぶりを振る。

「いいよ。すぐ帰ると思うから」

「え、すぐ帰る?」

ヒカルはまた小さい動作で頷いた。

(だってそうでないと決心が鈍りそうなんだから)

ヒカルの心の声など 聞こえるはずもなく、佐為はちょっと困惑気味の顔で言う。

「何でしょう。そんなにはやく済む話なんですか?」

ヒカルは部屋の真ん中 らへんで突っ立ったまま、自分の足元を見詰め、少し沈黙した。

そしてその姿勢のまま深呼吸し、目線を上げると、口を開いた。

「……俺さ」

「はい」

「俺……」

いったんは佐為の顔に定めた目線を微妙にそらし、ヒカルは話し始める。

「佐為にまた会えた時、凄く嬉しかったんだ。もう二度と会えない、会いたくて仕方なくなって も、俺の記憶の中でお前の姿を探すしかないんだって、納得しかけてたのに、いきなり 俺の目の前に生身の人間として現れるんだもん。死ぬほど驚いたけど、でも…… 滅茶苦茶嬉しかった」

何を言っているんだろうかこの子は。佐為は口も挟めずぽかん としたまま、ヒカルは話すのを聞いていた。

「あーこれで、また前みたいに佐為と打てるんだ、一緒にいられるんだって思って、 夢みたいに幸せだったよ。俺はそう思ってたの。勝手に。……だけどさ」

ヒカルはここで唇をぎゅっと噛んだ。

「だけど……無理なんだよな」

「……え、何で?どうしてそういうこと言う んですか?」

佐為は目を見開いて声を上げる。

「無理って、何で 無理なんですか?」

「だって、今の佐為は藤原佐為じゃないもん。そうだろ? 青木修馬っていう一個人だろ?」

佐為が絶句した。

「俺はほんとに考えが甘くて……これからも俺と佐為の関係は、師匠と弟子とか、兄と 弟とか、親友とか……何ていうか、一度別れる前の……四年前の延長みたいにいける もんだと考えてたんだよね。だけど……間違ってた」

声が震える。

「今の佐為は、佐為だけど……佐為じゃない。ちゃんと自分の 人生を持ってる。俺とは違う、別の人生を持ってるじゃん。前みたいに、俺とお前は いつでも何処でもべったり一緒ってわけにはいかない。俺が干渉すべきじゃない部分の 方がむしろ多いんだ。そうだろ?」

「でも、ヒカル……」

「お前には今っ……!」

佐為が何か言いかけたのを掻き消すようにヒカルは 声を上げた。

「……いるんだろ?好きな女の人が」

「…………は?」

佐為は呆然とした。

「佐為ごめん、俺、嘘ついてた……ちょっと前に ……俺が佐為の留守中にこの部屋にあがり込んで、棋譜だけ残していった日……。 あの日、佐為が帰ってきた時、ほんとは俺……まだこの部屋にいたんだ」

「……ええっ!?」

「あの寝室で爆睡しちゃってて、お前が帰ってきた時の物音で目ぇ覚ましたの。勿論、 その時はちゃんと部屋から出てって、おかえりって言うつもりだったんだけど、 でも…………知らない女の人が一緒にいたから……」

その言葉に佐為は、「!」という顔になって片手で額を押さえた。

「俺、びっくりしちゃって、出て行けなくなったんだ。それでずっとこの部屋に隠れて たんだけど、隙を見てそーっと脱出したの。あの女の人がトイレに篭って、お前が台所 でしゃがみ込んでこっちに背を向けてる時、静かにね」

佐為は、あなたイリュージョン でも食べていけますよ、という突っ込みを何とか堪えた。

「その時のことが……何か、凄く引っかかっちゃって……あ、嘘ついてたことじゃなく って、その……佐為に彼女がいたんだってことが、何ていうか……凄く……」

「ショックだったんですか?」

佐為が代わりに言葉を繋いだ。それにヒカルが ピクっと反応する。

「自分でも……よく分からないんだ。何でこんな気持ちになるのか。佐為と一緒に ずっと打ちたい、一緒にいたいってだけなのに、何でここまで……ここまで…… 佐為を……他の誰にも渡したくないとか、何でそんな勝手なこと、思うんだろ……」

徐々に小さくなる声だったが、佐為は真摯な面持ちでそれらを耳に入れていた。だが、 ヒカルはキッと顔を上げる。

「……だけどっ……それは俺の勝手でしかなくって……佐為には佐為の…… 青木修馬としての人生があって……誰を好きになって誰と結婚しようが、全部佐為の 自由なんだから……。俺には口出しする権利なんてないんだから」

佐為が何か言いたそうに、口を開けかけるも、ヒカルは話すのをやめない。

「それに、俺自身もこんな浮ついた気持ちじゃろくな碁が打てやしないだろうし…… いい機会だから、俺、戒めのつもりでさ、これからはもう……」

ここでヒカルは何か必死に堪えているような目で、まっすぐ佐為の顔を見据えた。

「佐為に会いにくるのは……やめます」

この言葉で、佐為の表情が凍りついた。だが、ヒカルはそれを直視しようとはせず、 ちょっと間を置いてからおずおずと笑みを作り、言った。

「ほんとは……もっと早くこうするべきだったのかもな。これからは俺、碁だけに打ち 込むようにして頑張るからさ。だから、遠くから俺の活躍、見ててくれよ。な?」

そして一歩後ろに下がり、

「じゃ……それだけだから」

と言い終わるか終わらないか、その時。

突っ立っていた佐為がいきなり一歩前へ踏み出し、ヒカルの両肩を掴んだ。そして、 普段とは打って変わった険しい表情、低い声音で呟くように言った。

「……それこそ、勝手というものです」





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